世界が映画を介して現れることのめまい/三浦哲哉

 映画を見ることによって、人間の思考や認識はどのような影響を被るだろうか。

 
 私はそれほど重症なほうではないと思うが、それでも、これはもしかして、と思い当たることがいくつかある。
 
 たとえば、車のバックミラーに映る光景が現実じゃなかったらどうしようと不安になる。同乗者に何やってるの? と時折、不審に思われるのだが、直接視認しないと恐い。鏡には映っていなかったはずのものが突如として出現する、というホラー映画のパターンが脳内に組み込まれてしまったからではないか。
 
 道路を横断するときに、右を見て、左を見て、ということをするが、左を見たときは、すでに記憶になった右の光景が信じられなくて恐い、ということもある。これも映画のせいだろうか。意味不明かもしれないが、右の光景と左の光景が別々のショットでできていて、そのあいだの連続性が絶対確実ではないかも、と感じられてしまうのだ。
 
 また、こちらはむしろビデオやDVDの影響かもしれないが、世界を早回ししたくなる、という感覚にも頻繁に襲われる。これは現代人の多くが共有する感覚なのかもしれない。耐えがたいほどじれったい出来事に直面したとき、頭の中の早送りボタンを押してしまう。もちろん現実がそれで速くなるわけではないのだが。

 「時間に追われる」という表現があるが、それが本当に文字通りに感じられるとすれば、それも映画の影響ではないか。時間の流れのようなものがあり、観客である自分はそこから遊離していて、速くなったり遅くなったりするその流れが、自分を追い越したり置き去りにしたりする。そんな感覚を、かくも生々しく覚えることが映画以前にありえただろうか。

 「走馬灯のように」という表現がある。中国で生まれた、蝋燭の炎に透かした馬の絵を回転させるこの前映画的装置に喩えて、過去の記憶が流れ去りながら一挙に回想されることを言うが、まさにその延長線上で、映画は、人間が時間や記憶について思考し、表現するうえで欠かすことのできない喩えになったのではないか。
 
 あるいは人間と人間の距離感にも、映画は少なからぬ影響を与えているにちがいない。ひとによって程度の大小はあるだろうが、ある種の離人症的な感覚と言えばよいだろうか。スクリーン越し、またはモニター越しに観察しあっているような遠さの感覚――他人を自動人形ででもあるかのように辛辣に観察したり、あるいは逆に一方的な感情移入をしてみたりする――、これもまた映画以来の何かではないだろうか。
 
 拙著『映画とは何か──フランス映画思想史』の発端にあったのは、以上のような疑問であり、それに先立つ小さな生理的めまいである。私たちの思考と認識には抜きがたく映画が介在しており、おそらく映画を通してしかもはや世界を感覚することができない。そしてそれゆえに、半ば慣れてしまってはいるものの、自分があたかも幽霊ででもあるかのような奇妙な違和感を時折覚えるようになったのではないか。
 
 本書ではフランスの前衛的科学映画作家ジャン・パンルヴェから、映画を論じた哲学者ジル・ドゥルーズまでを取り上げているが、その目的とは、つまり、この不思議なめまいが具体的に何を意味するかを解明することにあったのかもしれない。人間の認識を根底から揺さぶらずにいない映画的形態を発明した作家たちと、そのような映画の創造行為に触発されて思考した批評家・理論家たちのテキストがある。そこから、映画という装置に秘められた、人間の世界観を変える力を、いまもう一度はっきりと想起したい。
 
 世界が映画を介して現れることのめまい、この不思議な感覚への関心を、本書を通して共有できればさいわいである。

(みうら・てつや 青山学院大学准教授)

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