増補の増補/水村美苗


 一月に、コロンビア大学出版局から『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』の英訳が出て、それを機会に「文庫本によせて」という章を増補した文庫本が出ることになった。
 小説というものは書いてしまうと、それでお終いである。手に取って開けば、気に入らない個所が目に入り鉛筆で印をつけるが、閉じれば忘れていられる。それが小説の救いである。
『亡びる』のような本はそうはいかない。時事問題というほどでもないが、新たに読んだり経験したりすることがあると、つい、この英語の世紀の中で日本語がどうなるかを考え続けてしまう。おおよそは一応「文庫本によせて」に入れたが、それでも、ああ、これも書けばよかったと考え続けてしまう。
 たとえば去年バリ島のウブドで催された国際文学祭に招かれたとき、英語が母語ではないのに、英語と関わっている、三人の作家のパネルに入れられたことがあった。
「ミナエ、一番問題のない(=the least problematic)あなたのケースから始めましょうね」
 パネルのモデレータのインドネシア人作家が、にこにこ笑って私を指した。たしかに、英語圏に暫く滞在したあと母国に戻って母語で書いているなどというのは、あたりまえ過ぎる「ケース」である。残りの男女二人は中国系マレーシア人で、二人とも英語で書いていた。男性のほうはタッシュ・オーといい、マレーシアで高校を終えたあと、ケンブリッジ大学に行き、今やロンドン在住だが、東南アジアを代表する小説家だそうである。パネルの前に、東京の文学祭で私を見たと挨拶されたのをきっかけに二人は打ち解け、終わったあと昼食をした。
 四十歳を越しているというのに、東アジア人のなかでも格別若く見え、三十歳ぐらいにしか見えない。頬の大きな黒子が、象牙のようにきめ細かい色白の肌を引き立てている。そしてイギリス人よりも上手に聞こえる眩しいほどの英語であった。
 マレーシア人の作家はだいたい二種類に分けられる。マレー語で書くマレー人と、英語で書く華人である。華人が差別をうけ国外に逃げ出しているような状況下で、華人の作家がマレー語で書かないのはよくわかる。そもそも二千数百年以上の文学の歴史をもつ彼らにとって、マレー語は歴史がなさすぎる。だがそれだけならなぜ彼らは中国語(北京語)で書かずに、英語で書くのか。福建語や客家語が母語なので、北京語がさほど得意ではないからか。それとも英語の世紀ゆえの選択か。
 タッシュが英語を選んだのは、もちろん、英語の世紀に英語で書くことの利が見えたからである。だがそれだけが理由ではない。彼と話してわかったのは、彼には私のような意味での「故郷」がないということであった。華人として差別されてきたマレーシアは懐かしくとも故郷とは言いかねる。それでいて、彼の先祖が住んでいた中国も、到底、故郷とは思えない。彼のように故郷をもたない人間はこの先ますます増えていくであろう。そして、そういう人は英語で書くようになるだろう。
 私は英語で書いている彼がどこか羨ましかった。だが彼は私――というより日本そのものを羨んでいた。漱石から見れば、急激な「外発的」近代化によって、日本は「気の毒と言はんか憐れと言はんか、誠に言語道断の窮状に陥つた」ということになる。ところがタッシュにいわせると、東京の町を歩くと過去と近代とがうまく混ざり合い、しかもその近代が充実していて、時間をかけて社会が熟成したのが感じられるという。マレーシアや中国の急激な近代化は「empty=空疎」だという。
 なるほど、日本の近代化は傍からはそう見えるのか。タッシュの流暢な英語を聞きながら私は性懲りもなく考え続けた。そのような近代化があって、日本近代文学も熟成したのである。「言語道断の窮状」から生まれたとはいえ、日本近代文学はすでに百五十年近い歴史をもつ。やはり今日本人に残された課題は、そこで実ったものを未来に引き継げるか、その近代化を無意味なものにせずに済むかということである――と。

(みずむら・みなえ 作家)

ちくま文庫
増補 日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で
水村美苗著880円+税

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