都留泰作/不快の快楽・3 対置の効果

 湿気や寒さのような皮膚感覚的「不快」というものが、世界観エンタメにおいて持つ効能について考えてきたわけだが、さらに進んで、「忌まわしさ」が発揮する効能について考えを進めてみたい。

 例えば、リアルな快楽殺人というものを考えてみよう。性的な快楽と結びついた奇怪な殺人衝動の世界。エド・ゲインやジェフリー・ダーマーの死臭空間。これ以上忌まわしいものはない。しかし、『羊たちの沈黙』は、この奇怪な快楽殺人をある種のリゾート感覚に転換してしまった、奇跡的な世界観エンタメである。性欲と同じく、快楽殺人者たちの行動は、殺人衝動の解消と回復がただリピートされる、単調で起伏のない無間地獄である。
 しかし、この作品は、本来退屈で不快な快楽殺人の世界を、「浸る価値」のある深い世界経験として詐術的に展開し魅了する。この効果を生み出しているのは、名キャラクター、ハンニバル・レクター博士の存在だ。「怪物」が監禁された、ガラス張りの独房。知性と教養あふれる博士がデッサンをたしなむ優雅な静謐。これが快楽殺人の不快と対置されることで、人の生皮を剥ぐとか、死体が川底で腐敗する、といった不快なイメージすら、何やら味わい深いイメージのごとく機能し始める。
 対置の効果、という点で僕が思い浮べるのは、「国民的作家」司馬遼太郎の歴史世界である。一般には、司馬遼太郎は『竜馬がゆく』のような、「美しい日本」を描く作家として認知されている。だが、とりわけ特に短編作品に多いが、司馬遼太郎は、血に飢えた剣客や、酔狂な画人などに、やや変態じみた偏執を寄せることがある。竜馬のような「モテキャラ」と『人斬り以蔵』のような「非モテキャラ」をあくまで同列に置こうとするセンスの背後にあるのは、一種の類型論である。「坂本竜馬は維新史の奇蹟、といわれる。たしかに、そうであったろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもは、その時代的制約によって、いくらかの類型にわけることができる。型やぶりといわれた長州の高杉晋作さえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。竜馬だけが、型破りである。この型は、幕末維新に生きた幾千人の志士たちのなかで、一人も類例を見ない」(『龍馬がゆく(八)』、文春文庫、三九五頁)と彼が述べる時、そこに彼がイメージしている空間は、「普通種」「変種」が対比されることで浮かび上がってくる、「日本人」という、一つの「群れ世界」なのである。
 司馬遼太郎について、僕が常々面白いと思っているのは、これほどの国民的作家であるのに、近年の映画化・ドラマ化の成功例が非常に少ないことだ。例えば、藤沢周平の作品を下敷きにした『たそがれ清兵衛』は大成功するのに、司馬の作品は難物に見える(例えば『梟の城』)。これは、一つには、伝統的なドラマ作りの職人たちが集う「時代劇」の世界には、司馬作品を、世界観エンタメとして評価する視点が欠如しているためだと思う。司馬の小説を読んでいると、幕末や戦国の人々が暮らす空間や時間が生き生きとよみがえってくる心地がして、ついついそこに浸ってしまう、「不思議」としか言いようのない魅力がある。宮崎駿は、晩年の司馬遼太郎を心の師と慕っていたが、それは、「世界観エンタメ」のマイスターに対する思慕であったという気がしてならない。宮崎の最後の長編作品『風立ちぬ』の時代描写に、「司馬要素」を強烈に感じてしまったのは、もしかして日本で僕だけなのだろうか。
(つる・だいさく 文化人類学/漫画家)

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