レイチェル・カーソンの海へ/石田千

 ことしの夏は、朝顔を育てた。

 植木鉢に、種ふたつぶ。頼りない双葉から、うぶ毛の光る本葉が出ると、ふりむくうちにも伸びるようだった。
 小学一年の夏休みいらいの朝顔は、四十年まえとおなじようにするする育った。風にのって、ベランダの柵にふいとつかまって、のびていく。植物なのに、蜘蛛みたいな動き。目が覚めると見にいく。おはよう。黙ったままの声で、水をやる。いい夏をともにした朝顔は、好きにのびたのがよかったか、台風をいくつもかぞえ、秋の匂いのするいまも、大輪を見せている。
 多田満さんは、農学と環境問題を研究されている。ご自身の研究分野も、難しい科学も、ひとの生活とおなじ場所に存在していることを、著作や、水と緑の市民カフェなどの講座活動を通じて伝えてこられた。
 新刊となる『レイチェル・カーソンはこう考えた』では、海洋生物学者レイチェル・カーソンの生涯と著作を、若いひとにも、科学に疎いおとなにも親しめるよう解説してくださる。
 鳥や魚、動植物の生態、数多くの論文と児童文学や芸術作品を織りまぜ、難しい問題点では、より誠実に言葉が尽くされる。考え抜かれた控えめな文章から、静かな意志を秘めた声がきこえる。入門が大役。その思いがあるから、読むものにきこえる。
 レイチェル・カーソンは、一九〇七年、アメリカのペンシルヴァニア州で生まれた。文学と音楽を愛する母は、幼いレイチェルと森を散歩し、物語を読みきかせたという。
 作家を志し進学をするものの、大学在学中に生物学の世界に魅了されて、進路を変えている。さらに学問を深めて卒業すると、アメリカ内務省漁業局の生物専門官となり、公務員生活を続けながら、作家として著作を発表していく。
 若いころ。海の三部作と呼ばれるなかの一冊『潮風の下で』は、枕もとに、手さげ袋に、いつも手の届くところにあった。
 くたびれすぎて眠れぬ夜、息苦しい通勤電車、気まぐれに開くと、もう海にいられた。穏やかで好奇心いっぱいのレイチェルと、潮風と草いきれを浴び、満月夜の海辺を歩く。鳥にも魚にも、かわいらしい愛称があり、すぐに親しくなれた。意志を超えた本能で海を渡っていく生きものたちのたくましさを知ると、ひょろひょろの身体も、なんとか翌朝に立っていた。
 その一方、代表作の『沈黙の春』は、ずいぶん苦労した。膨大な論文と資料、科学の専門的な領域は、いまだ理解しきれないけれど、ひとの言葉を持たない生命たちの声を、必死に聞きとり伝えようとする彼女の姿は、ありありと浮かべられる。
 殺虫剤DDTを散布することによる被害を指摘した『沈黙の春』は、環境問題の古典として、現在も読み継がれている。いまの日本は、書名につらい光景を思い浮かべるひとも多いことと思う。ほんとうのことは、なかったことにできない。しんとした春の道に立ちどまり、ひとはどこにいけばいいのか。
 ……もしわたしが、子どもの成長を見守る妖精と話す力を持っているなら、世界じゅうの子どもに、生涯消えることのないセンス・オブ・ワンダーを授けてほしいと頼むでしょう。
 生まれ持った感性をとぎすませ、自然界を観察する。神秘と不思議に満ちた世界を、全身で見つめる。さまざまな生命の営みを知るうちに、ひともその大勢のなかのひとりと気づく。
 没後、友人たちによって刊行された『センス・オブ・ワンダー』は、ひとが種やまるい卵とおなじように、おどろくほどの成長をつめこんで世に生まれること、その感性は、困難を越えて生きる力を秘めていることが、慈愛に満ちた声で語られる。
 これからの科学は、未来の春への道を探らなければならない。
 カーソンは、重い病のなか、残された時間を執筆に費やした。その強靭な使命感は、生命誌を継ぐために全力を傾けずにはいられない本能を、ひとも備えていることを伝えている。
(いしだ・せん 作家)

ちくまプリマー新書
多田満著 780円+税


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