上原隆/鶴見さんに会いたくなったら


 七月二〇日、鶴見俊輔さんが亡くなった。九三歳だった。新聞記事でそのことを知ってからずっと、私は、私が「思想の科学」の編集会議やシンポジウムで鶴見さんに会っていたことが、まぼろしだったような感じがしていた。そんなときに、本書について書くようにと依頼があった。単行本のときに一度読んでいたが、再度読みはじめてみると、鶴見さんが目の前にいるような気分になった。たとえば、いまよりも一九六〇年代の方が良かったと思っている関川夏央さんが「貧乏であっても、どこの家も貧乏でしたから、いわば協和的に貧乏でしたね」というと、鶴見さんが「それそれ、『協和的に』という以外に人間になんの理想があり得ますか」と応じる。この「それそれ」といったとき、鶴見さんが両手を振って、目をまん丸にしているのが思い浮かぶ。
 本書の主題のひとつは、「一番病」の優等生を生み出す明治以来の教育体系の批判だが、話題はあちこちへ飛び、読んでいるときの楽しみは、主題そのものよりも、鶴見さんが繰り出す知識に圧倒されるところにある。
 鶴見さんの頭の中には百台くらいのローロデックスが入っていて(回転式の卓上名刺ホルダー、鶴見さんのは情報カードが入っている)、どんな話題でも、パタパタパタと回転して一枚のカードが現れる。
 江戸や明治の初期の頃には、「一番病」の優等生とは違う、世界に影響を与えるような「個人」がいた。吉田松陰もそのひとりだ。鶴見さんは、イギリスの大学の工学部に日本人留学生がいて、同じクラスにいたスティーヴンソンに吉田松陰の話をしたというカードを取り出す。「スティーヴンソンって『宝島』を書いた人ですか」と関川さん。「そうです。彼は世界で初めての吉田松陰伝を書くんだ。『吉田寅次郎』という、日本語に訳すとかなり長いものです」「スティーヴンソンがですか」「そうです」「まるで知りませんでした。驚いたな」スティーヴンソンが吉田松陰伝を書いていたなんて誰が知っているだろう。鶴見さんは相手を驚かすのが大好きだ。いたずらっ子のようなところがある。
 こんなカードも出す。「イチローはコンビニが好きでしょう」と突然、鶴見さんがいいだす。「宮古島へキャンプに行ったとき、『コンビニがあったらなぁ』といったそうですね」と関川さん。「イチローが取材に答えて『コンビニがあれば、それで自分は生きていけるんだ』といった。コンビニに行くと、そこで深夜の一二時、一時になっても入れるし、誰かが入っている」この話から鶴見さんは、コンビニには郷土主義(ペイトリオティズム)があるという。「コンビニですか」と関川さんは同意しかねるふうだが、鶴見さんの突飛な発想にほんろうされている。
 こんな鶴見さんに、関川さんはユーモアをもって対峙している。
 日露戦争で「勝った勝った」と日本人が喜んだところから日本は悪くなった。大変な戦争で負けなかったというだけのことなのにと鶴見さんがいうと、関川さんが「相撲でいうと八勝七敗」と受ける。「一番病」の優等生は世界の先進思想を学びたがるが、それは身につかない、すぐにはがれると鶴見さん。「日焼けみたいなものですか」と関川さん。このへんの受け答えは関川さんならではのものだ。彼は聞き手に徹して、鶴見さんから様々なカードを引き出し、それを楽しんでいる。
 鶴見さんはいろいろなところでおしゃべりをしている。鶴見さんに接した人はおそらくみんな、鶴見さんのおしゃべりを楽しみにしていたはずだ。その楽しみも、もう……、と思っていたけれど、そう、鶴見さんに会いたくなったら、本書を開けばいいんだ。

(うえはら・たかし ノンフィクション作家)

ちくま学芸文庫
日本人は何を捨ててきたのか
鶴見俊輔・関川夏央著1200円+税

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