角野栄子/【特集 ちくま文庫30周年記念】ちくま文庫と私―だんとつの一冊

「どうぞお入りになって、お座りください」
 お客さんが来ると、いつもこんな風に言う。ところが、すぐ座る人はまれで、みな申し合わせたように、本棚の前に立ち、並んでいる本にじっと目を注いでいる。こちらは頭の中を覗かれているようで、落ち着かない。そういう私もたずねた家でついつい同じ事をしてしまうのだけど。
「ちくま文庫がならんでいましたよ」
 そんなお客さんの一人が、こう囁いたらしい。それでこの原稿を書くことになった。
 ちくま文庫が初めて本屋さんに並んだときのことを、ぼんやりと覚えている。そこだけ、黄色い色をしていた。残念ながらその時の本のタイトルは記憶にない。カバーは白く縁取りされていて、なかの絵が美しいと思った。それは私が大切にしていた、昭和の初めに出た「世界大衆文学全集」(これはハードカバー、改造社刊)に、丁度大きさも同じで、似ていた。
 それで家の棚に並んでいるちくま文庫を全部とりだして見てみたくなった。たびたびの引っ越しで、数はだいぶ減ってしまっている。奥付を見ると、一番古いのは、創刊の翌年、一九八六年のイエイツ編『ケルト妖精物語』、マクドナルド著『リリス』、次は八七年で、C・S・ルイス著『別世界物語 1と2』など。ありがたいことに初期のちくま文庫にはイギリスのファンタジーが多かった。発行者が、布川角左衛門とあるのも懐かしい。名前の響きが、なぜかずっと好きだった。
 実は、ちくま文庫と『魔女の宅急便』は同い年なのだ。今年三十歳。何もわからず、夢中で書いたものがファンタジーと言われて、頭がくらくらし、「ファンタジーって何?」と、ばたばたと購入したのが、私の初期のちくま文庫のコレクション。
 その後、「魔女」について知りたくなって、『ケルトの薄明』『グリム童話』『鬼の研究』『お伽草子』、小泉八雲の『さまよえる魂のうた』などが続いてくる。
 そうこうしているうちに、ジャンニ・ロダーリ著『ファンタジーの文法』に解説を書くことになった。解説なんて、生まれて初めてのことだった。今回、久しぶりに読み返してみたら、恥ずかしくて、目をつぶりたくなった。でもこの時、ロダーリさんに「発想が多少突飛でも、自由でいいのだ」と言われたようで、気持ちが楽になった。丁度いい時期の出会いだったと思う。
 実は、私、「シャドウ本棚」というようなものを持っている。目的もなく選び、文句なく好きになり、忘れたくない本ばかりを子どもの頃からずっと並べてきた。この本棚は家にたずねてきた人には、見えない。その中に、もちろんちくま文庫もある。思いつくまま、ちょっとだけ名前を挙げてみると、モームの『アシェンデン』、阪田寛夫『まどさん』、やまだ紫『しんきらり』、堀田善衞『上海にて』など、など、など……。ふと立ち寄った本屋で、偶然に手に取ったものばかり。その時の気分のままに購入したので、統一性なくばらばら。でも、私の「隠れ本棚」の住人になった。
 その中で、だんとつの私の一番がある。それは、志ん生の『びんぼう自慢』。志ん生が生前語ったものを、小島貞二氏が聞き書きしたものだ。それが、志ん生の口調そのままで、聞き入って、いや読み入ってしまう。
 例えば、こんな言葉が出てくる。
「芸人がそんなことしちゃァいけない」
「……話ィしながら、時々立ち上がっては、縄ァひっぱってる爺さんの姿が、今でも、こう、目ン中に残ってますねえ」
 この時々現れる小さいカタカナ。その音、リズムが下町生まれの私にはたまらない。わざとかすれた声をだして読んだりする。すると空襲ですっかりなくなった、懐かしい深川の風景が浮かんでくる。そこに父の声が重なる。また、門前仲町あたりを歩きに行こうかな、と誘われる。

(かどの・えいこ 童話作家)

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