しぐさから美術を読むということ/宮下規久朗

「絵画は黙せる詩」と言われ、美術作品は静止して言葉を持たないのが普通である。そのため、西洋美術は言葉によらずに意味や内容を伝えるための方法を発達させてきた。美術に登場するモチーフは、一種の記号のように、ある意味内容を伝達したのである。前著『モチーフで読む美術史』『モチーフで読む美術史2』は、美術によく見られるモチーフがどのような意味をもっているかということを解説したものであった。
 今回刊行した『しぐさで読む美術史』は、西洋美術の中心をなしてきた人物のしぐさや身振り、ポーズや動作、あるいは喜怒哀楽に着目している。西洋美術は人体を中心とし、人体の動きによって意味を伝えてきたが、こうした人物のしぐさによって作品を読み解く楽しみを紹介するものである。
 西洋人は身振りやジェスチュアが大きいが、これは異なる言語の入り乱れる地域ならではの習慣であった。日本は単一の言語体系の島国に生きていたので、身振り言語を必要とせず、それゆえに他人の身振りにもすっかり鈍感になっている。そのため、西洋美術を見るときは身振りに注目することが必要なのだ。
 たとえば、キリスト教美術でもっともよく知られ親しまれた主題に「受胎告知」というものがある。乙女マリアのもとに天使が現れ、キリストが生まれることを告げる。登場人物は聖母マリアと大天使ガブリエルだけのシンプルな画面だが、マリアの身振りによって、受胎告知のうちのどの段階かがわかるのだ。まず天使がやってきてマリアに「おめでとうめぐまれた方」と挨拶したとき、マリアは驚いて何のことかわからずに戸惑った。このマリアの驚きや戸惑いを表すのは、両手を挙げて手のひらをこちらに向けるポーズである。次にマリアが受胎すると告げられ、彼女は天使に「どうしてそんなことがあるのでしょうか」と問い返した。この「問い」のポーズは片手を軽く挙げるもので、日本にある有名なエル・グレコの作品はまさにこの場面を表している。最後にマリアは納得して受け入れるのだが、それは両手を胸の前で交差させるもので、イタリアのベアト・アンジェリコの絵が有名だ。このように、「受胎告知」のような単純な話でも、マリアのポーズによってそれがどの場面かがはっきりわかるように描き分けられてきたのである。
 また、西洋美術には、聖母や聖人が両腕を広げるポーズが頻繁に見られる。これは「オランス」といって典型的な祈りのポーズである。祈りといえば手を合わせると思われがちだが、中世以前は両腕を広げて天を仰ぐのが一般的であった。
 そもそも人物のポーズというものは、画家や彫刻家がいきなり考えつくものではなく、一定の型のようなものが存在していた。その多くは古代ギリシャやローマの彫刻に由来するもので、とくに女性ヌードや英雄のポーズなどは、いくつかのパターンに分けられる。作品にこうした古典からの引用や借用が見られるほど、作者の学識が讃えられたのである。近代に生まれた芸術家のイメージでは、芸術家というものは天から降りてきた霊感に従って制作するもので、他の作品を模倣したりはしないと考えられがちだが、それは誤りである。美術というものは古今東西を問わず、どんな天才的作品でも必ず過去の作品と密接な関係をもっており、時間と空間の制約の中からしか生まれないものであって、芸術家の天分や創意工夫などといったものはごくわずかな要素にすぎないのだ。そのため、こうしたさまざまな伝統や約束事を知ることは、美術鑑賞にとって不可欠である。知識を軽視して、自分の感性や好き嫌いだけで見ても、ほとんどの美術作品は何も語りかけてくれない。
 こうしたことに敏感になれば、美術作品に限らず、広告やポスター、さらに映画やテレビで見る俳優やタレントの動作やポーズからも、いろいろなことが読み取れるようになるだろう。
(みやした・きくろう 美術史家・神戸大学大学院教授)

エル・グレコ《受胎告知》1590-1603年
倉敷、大原美術館

ちくま文庫
宮下規久朗著
760円+税

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