野生のエチカ/安藤礼二
神がそのまま自然となるような大宇宙の原理を永遠の相から思考した哲学者スピノザは、同時に荒々しく複雑きわまりない現実世界の直中を生き抜き、苛烈な宗教批判にして政治批判を繰り広げた類いまれなる実践家でもあった。スピノザは、ヨーロッパが「世界」となるための自明の前提とされた一神教的な世界観、その宗教と政治の結びつきを解体してしまう。そしてそこに、無限に多くの属性をもつ唯一の実体というきわめて異様な神の姿を見出した。「一」であり「多」でもある神即自然の本性を理解することが、現実世界を直接変革することにつながる。それは一神教を成り立たせている最も基本的な構造に直に手を触れ、変更してしまう危険な行為であった。スピノザの著作は禁じられ、スピノザ自身無神論者にして無政府主義者という烙印を押され、宗教の世界からも政治の世界からも追放されてしまった。スピノザほど深く神を考え、政治を考えた人はいないというのに……。
スピノザが格闘したヨーロッパという病。それは、スピノザの時代に顕在化しはじめ、現在では地球という一つの球(グローブ)を覆い尽くすまでに成長し、資本主義という強力な名前をもつにいたった。中沢新一は本書『緑の資本論』において、ヨーロッパという思考の体制が成立した起源、さらには資本主義という経済の体制が成立した起源には、キリスト教の神学が千年以上にわたって磨き上げてきた「三位一体」構造がある、と喝破した。そしてスピノザのように、その病の構造を解体する作業に着手する。スピノザが行い、中沢が行った解体とは、単なる破壊ではない。構造の否定ではなく構造の変容、死に向かう病を生に向かう産出の母胎へと作り替えてしまうこと、つまり起源に遡行する過程において、そこからまったく新たな理念を生み出すという創造的な行為なのだ。無機的で非対称的な資本の論理を有機的で対称的な資本の論理、「緑」に変えてしまうこと。
その際、肯定と否定という単純な価値判断を下すのではなく、あくまでも複雑で両義的な価値判断の場にとどまることが求められる。なぜなら、父、子、聖霊という「三位一体」構造もまた、超越的で無限な神の領域と内在的で有限な生命の領域、「一」と「多」を一つにつなぎあわせる見事な論理だったからである。ただし、そこには自由に自己増殖する聖霊の暴走を引き留める制御装置が欠けていた。自由に運動する聖霊によって自然過程から遊離し、ヴァーチャルな時空をひらく貨幣が生まれ、それが利子に転化し、資本として蓄積される。その増殖する聖霊をあらためて自然の直接性のなかに組み入れること。貨幣を「象徴界と現実界を直接性」において結び合わせる蝶番、神の表現としてある自然の「記号」として考えること。中沢は、そのために「三位一体」を構成する「一」の極と「多」の極にそれぞれ非ヨーロッパ的な思考方法を接合し、そこを両義的な場として解体再構築してしまう。
「一」の極にはイスラームの「タウヒード」の論理が、「多」の極には民俗学的な「モノ」の論理が重ね合わされる。イスラームの「タウヒード」は、余計な媒介項(「神の子」)を排除し、神とその表現の「記号」としてある自然を直接結び合わせる。民俗学的な「モノ」は、光だけでなく闇をも包含した物質の深い層をあらわにする。聖霊は自然の直接表現となり、貨幣には抽象的な量だけに還元されない具体的な質の厚みが与えられる。時代の大きな変動のなかから生まれ、時代の証言としてもある一冊のこのコンパクトな書物によって、またそのような書物であるからこそ、宗教学と経済学に対する根底的な批判が可能となり、霊と経済との結びつきが唯物論的に刷新される。グローバル時代を生き抜くための真の叡知が、欲望と商品が直接向かい合う新たな市場の論理が、自然の直接性の上に打ち立てられ想像力と物質が一つに融合する野生のエチカが、間違いなくここからはじまる。
(あんどう・れいじ 文芸評論家)
『緑の資本論』
中沢新一著
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