書籍予約の心迷い/柴田 翔

 五十代も終わりの頃、ゲーテの日記の新しい二十巻本がドイツで出るという話を聞いた。正確に言うと、日記本体は十巻だが、その一巻毎に詳細な注解が一冊付いて二冊一組になり、それが年代順に二年に一組ずつ出て、二十年で完結するという。
 作家の日記を読むのは面白いが、注解なしだと骨が折れる。もともと自分のためのものだから自分に分かっていることは書かない。前後の事情は抜きで、固有名詞も説明なしで出てくる。若いころのゲーテの日記では、身近の人や事柄が太陽や月、惑星などの略画、また三角や四角の記号で出てきたりする。
 どうせ詳細な注解付きの日記を出すのなら、もう少し早くに出してほしかったと、六十歳定年も間近だった私は思ったが、パンフレットには、第一回の発売前に全巻予約すれば一割五分ほど安くなるとある。ともあれ、これは予約するしかないな、と一度は考えて、いや、待て、と思い直した。
 特に興味があるのは晩年なのだが、日記二十巻が順調に出たとして、全巻揃ったとき、自分は八十じゃないか。そのとき自分がゲーテ晩年の日記を、細かな注解の文字を辿りつつ読んで行く気力、体力、何より視力があるだろうか。
 いやそれよりも何よりも、そもそも生きているだろうか。
 自分の死後、予約済の分厚いドイツ語の日記が二年に一度二冊ずつ、本人不在の自宅にどさっと配達される情景が心に浮かんだら、すっかり気が削がれてしまった。
 それからざっと十五年。八十歳はまだだが、七十五歳が目前である。
 八十二歳で死んだゲーテの生涯について、若い頃は六十歳以降を十把一からげに老ゲーテで済ませていたが、自分が五十歳を越えたくらいから違いが少し見えてきて、六十五歳からの老年期と七十四歳からの晩年期は別だと考えるようになった。身体的な衰えももちろんあるが、それよりも、世界の見え方が別のものになって行く。なお快活に生活を楽しむ日々と、いつもどこかで死が自分を窺っているのを意識する日夜と。
 ところがいま自分自身がその最終時期に足を踏み入れてみると、〈晩年期〉などと昔は何とも気軽に名付けたものだ、という気がして、あまり実感がない。生の段階がくっきりと区切られるのも、天才の特権らしい。
 だが、こんど筑摩書房から『闊歩するゲーテ』という本を出してもらうのも、実は自分がそこへ足を踏み入れていることの現れなのかも知れない。〈宇宙を闊歩するゲーテ〉の裏には〈暗く沈黙するゲーテ〉がいるのだが、そういう複雑で魅惑的なゲーテについて、長年書いては気軽に忘れてきたものを、この辺で整理し、纏めておきたくなったのである。
 研究めいた個別の論考ではなく、ゲーテ全体に関わるもの。ゲーテが見ていた世界の果てしなさ。謎の深さと美しさ。それと、敗戦世代である自分がゲーテをどう読んできたか。
 講演筆記の整理したものも組み入れて、広い興味から読んでもらえる本を造っておきたい。二十年前だったらきっと『沈黙するゲーテ』だったものを、今は『闊歩するゲーテ』として送り出したい―。
 そんな気持ちでゲーテ論はこれで打ち止めともひそかに思っていたのだが、老眼をしばたかせつつあれこれ読み直しているうちに急にまたゲーテは面白くなり、その老年晩年の奥深さへもう一歩と未練が出たのも、何かの兆しなのだろう。
 そう言えば、あの十五年前に予約を取り止めたゲーテの日記二十巻はかなり予定が遅れ、現在まだ十冊で、次がゲーテ六十八歳からの日記という段取りだという。それなら、通読などもうできるはずもないが、せめて近時今後のわが身とも重なるこれからの部分だけは手に入れて、天才の晩年を覗いてみようかと、一瞬頭をよぎるのも、こちらの晩年の気の迷いに違いない。何しろ二十巻本の計画は今や二十六巻にまで拡張され、完結にあと二、三十年は掛かる気配なのだ。
(しばた・しょう ドイツ文学/作家)

『闊歩するゲーテ』
柴田翔著
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