『占領下日本』著者座談会 アメリカから得たもの、失ったもの

竹内修司●ジャーナリスト
半藤一利●作家
松本健一●麗澤大学教授
保阪正康●ノンフィクション作家


占領は日本をどう変えたか
竹内 昭和二十七(一九五二)年、日米講和条約が発効した直後の六月に出た「文藝春秋」増刊号に、「占領されたアメリカから得たもの、日本が失ったもの」というアンケートへの、当時の有識者十五人からの答えが掲載されています。例えば『チボー家の人々』などを訳した仏文学者の山内義雄さんは、「たった一つ、まさに得たものとして解釈できると思われるのは、天皇の人間宣言である。これは、天皇ご自分においてもサバサバされたことだろうし、我々としても、いままでモヤモヤした気持ちを引き払ってもらった感じがする」と答えています。それから、白洲正子さんは当時まだ四十二歳ですが、非常に短くズバリと、「与えられることはそのまま得ることにはならない」と。本日は、『占領下日本』のまとめにもなるはずだったこのテーマについて話し合ってみたいと思います。
半藤 時系列を整理すると、昭和二十六年にサンフランシスコで講和条約が締結され、昭和二十七年の四月に日本は占領が解かれて独立し、新たな国造りが始まったわけです。この占領下に何を得て何を失ったか、具体的に挙げてみます。
 戦後日本が得たものとしては、この本で論じる余裕がなかったのは残念ですが、何より農地改革と財産税だと思います。農地改革は、江戸時代以来の日本の根底を形作ってきた〈地主対小作人〉という構造を壊しました。それは小作人の犠牲の上に成り立っていた制度でしたが、財産税も加わったことで、貧富の差はかなり緩和されました。GHQの命令がなければ到底実現できない大事業だったし、日本の再生に間違いなく大そう役立ちました。婦人参政権や婦人の地位向上ということも言われるのですが、これについては今回はふれません(笑)。
「失った」ということについて、アメリカによって失ったもの、アメリカのために失ったものと厳密に分けて考えると、前者については、天皇=現人神という信仰を中心にした、八紘一宇を国是とした大日本帝国という思想が一掃されたということが挙げられます。後者については、否定的な意味で申し上げるのですが、歴史教育だと思います。GHQは昭和二十年十二月三十一日に「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」を発令して、国史、地理、修身の授業を停止しました。このことで、日本は大損したんじゃないでしょうか。その大損はいまも続いています。
保阪 私は、獲得したものというのは、抽象的になりますが、普遍的な意味をもつ一般的なデモクラシーというのではなく、いわゆる「戦後民主主義」と呼ばれる「アメリカン・デモクラシー」だと思います。
 失ったものは「ナショナリズム」ですね。ただ、そこには二つの意味が含まれていると考えています。一つは、戦争指導者たちのイデオロギー的な背景となっただけでなく、当時の社会を支配していた超国家主義、あるいは偏狂的な民族主義・愛国主義で、もう一つは、私は「下部構造のナショナリズム」といいたいのですが、共同体に伝承している規範とか倫理的な感覚です。ここには良質のものが数多くあります。
 結局は両方とも解体されてしまいましたが、その過程の中に、日本が占領期に向かい合ったときの姿勢の弱さがあったのではないでしょうか。このように、アメリカン・デモクラシーの導入とナショナリズムの崩壊・喪失とは表裏の関係にあると考えられるのですが、やむを得ず失われたものについて想像をめぐらすことも、占領を考えるときに欠かせないものだと思います。


オキュパイドからアメリカナイズドへ
松本 この中で、私だけが昭和二十一年一月の戦後生れで、小学校一年生まで占領下だったということになります。福澤諭吉は明治八年に発表した『文明論之概略』の中で、万世一系とか皇統連綿というが、それは外国によって政権を奪われなかった結果を言っているに過ぎないと指摘しています。占領下というのは独立が奪われているわけですから、天皇の国家というような国体も失われたということだと考えています。
 当時、私は中島飛行機の本社があった群馬県太田市に住んでいましたが、その本社が米軍司令部になっていたということもあり、家の裏には米軍将校のオンリーさんが住んでいました。朝、登校するときに、よくジープが停まっていましたが、そのタイヤを蹴飛ばしながら学校に通ったという記憶があります。その基地は東海道新幹線が開通する昭和三十九(一九六四)年までありましたが、車体の白と青のツートンカラーを見た時、基地の中に建てられていた青い瓦と白い壁の将校宿舎が浮かんできました。というのは、それは日本の黒白茶の家屋とは全く異なる色合いだったからです。それに象徴されるように、オキュパイド・ジャパンは、やがてアメリカナイズド・ジャパンへと変わっていきました。
竹内 占領軍による家屋の接収ということも忘れてはならないでしょう。東京都近郊だけで、個人住宅が千百四十軒余り接収されています。私は台湾にいた時に、自宅が国府当局に接収された経験がありますが、東京とその周辺の接収では、ほとんどの家具、什器を残したまま追い出された。考えてみれば乱暴な話ですよね。さんざん焼夷弾を落として焼き払っておいて、残った家屋の中から、今度は自分たちが住む家を探してしらみつぶしに接収していくわけです。
半藤 私は新潟県長岡に昭和二十三年までいましたから、アメリカ人の姿をあまり見ていないんです。けれども占領軍が、マッカーサーの言明にあるように、いかに急いで日本を変えようとしたかということは骨身に染みてわかっています。アメリカは、占領を一年半から二年ぐらいでやめるつもりだった。それで急いだ。ところが日本政府は、「民主化」のお題目のもとに、昭和二十一年後半あたりまでの急ピッチな占領政策に対して全く無抵抗でした。例えば学校制度ですが、どうして簡単にアメリカの押しつけをんだのでしょうか。六・三・三制とか、歴史や地理を単独で教えるのではなく社会科としてまとめるということなど、アメリカでも一部の州でしかやっていないことを、日本はすぐにハイハイと了承してしまったんです。結局、戦後日本をどういう国にしていくのかという全体像も浮かばないまま、議論もほとんど行なわれないまま長い年月が経ち、歴史を知らない国民をつくり上げてしまった。


「撃墜された特攻機」の映像
竹内 私も子供心に、大人がいかに情けないかというのは感じていました。ただ、あの当時、無理もないところもあったと思います。あれだけ痛めつけられて、空襲や原爆があり、疎開して逃げ惑った果てに占領があったわけですから、やむを得ない面もあったでしょう。そういう茫然とした状態であったために、いろいろな改革がひとまず「いいもの」として受け入れられていったんじゃないでしょうか。
保阪 新しい教育制度が始まるのは昭和二十二年四月からですが、私はその前年の四月に国民学校に入学しました。よく映画を見せられたんですが、日本の特攻機が撃墜されるニュース映画を見た時のことは忘れられません。教師が拍手をしたんですね。私たちも呼応して拍手をしたんですが、強い違和感を持ちました。私たちの世代は「大きくなったら何になりたいか」と聞かれて、「陸軍大将になりたい」と答える者がまだいたわけです。後年、そのことをエッセイに記したところ、山田風太郎さんから、そうした記憶をどのように理解するかというのはとても大切なことです、という印象深い感想を頂きました。戦後の民主主義教育というのは、そういう「アメリカの正義」の受容ということだったんですね。それによって生じた屈折した風景というのは、至るところにありました。私は、アメリカン・デモクラシーというのは前の制度よりはマシだと思っていますが、その自己矛盾を封印したまま占領体験を語るとすれば、それは正直な姿を見失わせてしまうのではないかと思う。
 その際、象徴的な事実として忘れてはならないのは、戦時下で大本営の作戦主導を担った中堅幕僚のうち、戦後、GHQに重用されて戦史を書いた人たちがいるということです。国民の貧しい時代に、彼らは経済的豊かさを保証されながら、アメリカに利用されて別の軍事的役割を果たすのですが、そうした節操のなさも、占領下の歪んだ光景として記憶されなければなりません。
竹内 占領下の正義ということについて、ドイツ文学者の高橋義孝は「正義だの人道だの、いくら口先で言ったところで、そういうものはすべて自分の国や民族に利益をもたらす限りにおいてのみ通用することを、アメリカは親切にも教えてくれた」と言っています。アメリカについては、日本側の受容の仕方も含めてさまざまな問題があったことは間違いありませんが、それにしても、占領下に一挙に溢れるように流れ込んだアメリカ文化の影響は、やはり圧倒的なものがありました。


アメリカの光と影
松本 先ほどお話した基地の中にある兵隊の宿舎に、ハーレーダビッドソンに乗せられて連れて行かれたことがあります。そこで目にしたのは、個人用のラジオ、コカ・コーラ、カタログ雑誌で、流れているのはジャズでした。そのアメリカ的豊かさというのは、当時の日本とすれば途方もないものでしたね。戦後日本の文化は、鉄条網の向こうの米軍基地から流れ出た文化と言えるんじゃないでしょうか。
 けれども民主主義については、一概にそうとは言えないと思います。確かにポツダム宣言には、日本を民主主義の国にするという項目がありますが、それまで日本にも「民権主義」とか「民本主義」という言い方がありました。ですから、丸山眞男さんや竹内好さんも敗戦の直後には、民主主義とは、五箇条の御誓文にある「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」ということだと理解していたのです。そうした認識は昭和天皇にもあって、日本はアメリカによって民主化されるのではなく、昭和二十一年一月一日のいわゆる人間宣言に五箇条の御誓文を謳い込んだように、戦前昭和には機能し得なかった民主主義を再生しようと考えたわけですね。
 しかも、付け加えておきたいのは、米軍が使っていたスクールバスにさえも、はっきりと人種差別があったということです。前の入口は白人用、後ろは黒人用と、明確に区別されていました。私にとって、民主主義という言葉の記憶の中には、そのような風景も刻み込まれています。
竹内 日本の歴史的な伝統の中に民主主義の萌芽があったのは事実ですが、戦前昭和の教育を受けた世代は、そういう考え方、思想から全くシャットアウトされていたのではないでしょうか。
半藤 歴史的な事実としては、明治元年には五箇条の御誓文が発布されたり、「自由民権」を旗印にした全国的な運動が組織されたり、その後は「大正デモクラシー」という言葉も流布されたように、日本の中に国民を主体にして国を作っていこうという機運があったのは事実です。
 けれども、私は昭和五(一九三〇)年生れですが、物心のついた頃、周りには「民主主義」という言葉はなかったと思います。日露戦争に勝利して以降、日本人は自惚れてのぼせて誇大妄想的な気分が広がり、民主主義的なものは一顧だにされず軍国主義化していきました。軍隊は国民を犠牲にしてでも天皇に仕えるものとされていたんです。「天皇の軍隊」です。それは占領によって解体されます。ところが、もう一つの阻害要因だった「天皇の官僚」の方は、基本的には戦前の組織を温存したまま変革されませんでした。ワシントンの予想以上に早く日本が降伏したために、占領をうまく進めるためには官僚組織を使わざるを得なくなったんですね。どういう国家を作るか、いくつか選択肢があったと思うのですが、本質的な議論がされずになし崩しに独立したわけです。占領はやはり長過ぎましたね、情けない話です。


日本における民主主義の伝統
保阪 昭和二十七年四月二十八日に日本は独立を回復したわけですが、その間、日本側で大きな影響力をもっていたのは吉田茂でした。吉田は、昭和二十一年五月~二十二年五月と、二十三年十月~二十九年十二月まで六年八カ月の占領期間のうち、実に五年近く政権を担当しました。その吉田の認識は、昭和三十二(一九五七)年に著した『回想十年』によると、近代日本は明治維新以来うまくやってきたが、昭和六年九月の満州事変から変調をきたしたのだから、それ以前に戻ろうというものでした。
 つまり、アメリカン・デモクラシーは臣民から市民への移行を企図していたわけですが、本来、吉田はそれとは逆のことを考えていたことになります。吉田に限らず、そういう人は多かった。たとえば、天皇の人間宣言が作成される経緯を見ても明らかです。天皇の側近だった侍従次長の木下道雄の日記によれば、木下はGHQの承認を得た幣原喜重郎内閣の原案に対して強い不満を洩らしています。国民が天皇を神の末裔と考えて、八紘一宇のもとに戦争を選択したことへの非難はやむを得ないとしても、天皇を神の末裔だとする認識そのものは変更すべきではない、というのです。
 占領下の日本では、国体は破壊されたとしても、臣民という意識は依然として持続しており、そうした混淆した状況が政治システムの中にはありました。占領が終わった後、それに決着をつけるべきだったのですが、あいまいなまま現在に至っているわけです。しかし、それが私たちの国の知恵なのか、それとも後退的な国民性を表していると考えるべきなのか、すぐに答えるのは難しいですね。
松本 戦前の日本は軍国主義化していて、軍隊の統帥権が天皇にあり、結果として天皇の軍隊になっていたというのは、その通りだと思います。きっかけとなった出来事の一つに二・二六事件があるといわれていますが、私はそれに疑問を感じています。私は長年、事件に連座して、民間人としては元軍人の西田税とともに処刑された北一輝について調べてきましたが、彼の意図は、軍隊を、天皇のものから国民の軍へ変えようとするところにありました。彼が著した有名な『日本改造法案大綱』には、「日本は明治維新以来、天皇を政治的中心とする民主国である」と書いてあり、その第一章は「国民の天皇」となっています。それはあたかも、戦後日本の天皇制の形ですね。そうだとすると、二・二六事件を引き起こした青年将校たちは「国賊」ではなく、むしろ民主主義革命をやろうとしたのではないか、と考えられるのではないでしょうか。GHQも、二・二六事件の関係者を呼び出して徹底した調査をしていますが、誰も罪に問われることはなく、戦犯に指定された人はいません。そこにもまた、アメリカから与えられたものがあると評価すべきだと思っています。


『自由と規律』の著者、池田潔の意見
竹内 冒頭にご紹介したアンケートの中から、今日なお通用すると思える答えを二つだけ挙げて終わりたいと思います。一つは、戦後、読売新聞の主筆を務めた岩淵辰雄という政治評論家の、「日本人の力で憲法改正など絶対にできなかったと思う。いまになると、憲法はアメリカから貰ったもので、国辱憲法であるかのように言う人たちがいるが、貰ったから国辱なのか、貰わなければ、日本人の力ではどうにもならなかった」というものです。
 もう一つは、今はもうご存じの方はいらっしゃらないかもしれませんが、『自由と規律』(岩波新書)という、自身の留学体験に基づく英国論の著者で、英文学者で慶應義塾大学教授でもあった池田潔の答え。「占領によって我々が政治その他の面において自主性を失った傾向があることは否めない。バックボーンを取り戻せの声が高いが、無批判な復古がそのまま自主性の確立を意味するものではないことを明記しておく」です。
(二〇〇九年八月四日、『占領下日本』の刊行を記念して東京の神田三省堂で行なわれた座談会をもとにした。)

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