虚構の少年たちは、知っている/米光一成

〈子どものころ、彼はほんものの海を見たことがなかった。〉  ほんものとは何だろうか。小説はほんものだろうか。人が文字を使って世界を組み立てるのだから、どうぬけ出そうと戦っても人工的であることから逃れられないのではないか。その虚構のどこに、ほんものがひそむのだろうか。
〈「深呼吸して、」
 うながされて、鳥貝は素直に息を吸った。
「もっと深く。息を吐くときに、この鳥がはじかれて翔びたつくらい。」
「……鳥?」
「目を閉じてごらん。息を吸って、……もっとだ。そう、それでいい。ほら、鳥が翔んだ。」
 机にひろげた白い紙を示す。そこに、男のかざした手が鳥の影絵をつくった。〉
 長野まゆみの『白いひつじ』は、人工的な虚構としての世界を積み上げていく。虚構であることが意識的に選び取られて、組み立てられていく。
 たとえば登場人物の名前。
 安羅、多飛本、時屋、白熊、百合子、主人公の名は鳥貝。
 作中で主人公が“いったいどうしたわけで、この寮の関係者は珍名ばかりなのか”と驚くほど現実離れした名だ。
 たとえば、舞台。
 鳥貝が見つける男子寮は次のように描写される。
〈彼が小さな子どもだったら、城だと思ったことだろう。二階家であるが、出窓のつくりや破風のあしらいが、童話の世界のそれだった。客人がもたらす洋菓子の箱にえがかれているような、家である。〉
 こうして物語は、じょじょに慎重にほんものの日本から数センチだけ遊離していく。
〈財布から五百円玉をとりだした鳥貝は、それを男にさしだした。男はそれをうけとるかわりに、鳥貝の腕をつかんでひきよせ、キスを強行した。まるっきり油断していた鳥貝は、されるがままだった。〉
 少年愛(クナーベン・リーベ)の世界である。
 ほんものの世界にも少年同士の愛はあるだろう。だが、ここに描かれるのは、実在の男性身体を必要とするそれではない。童話の世界の装飾をもつ洋館を舞台に、現実離れした名を持つ人工的な少年たちだけが持ちうる関係性だ。
〈「せっかくの一期一会の晩ですからね。たとえば、見ず知らずであるという負の要素を逆手にとって、おたがいに相手のプロフィールを勝手につくりあげ、旧知のあいだがらのつもりで話をするのです。架空のシナリオの読みあわせのように。」〉
 主人公の鳥貝は、つねに幼い存在として描かれる。彼が見る他の少年は、いつも自分よりおとなである。寮の少年たちと出会い、彼は自分の過去を振り返る。
〈彼こそが、両親のために抗議すべきだったのだと、悔やまれる。鳥貝は、自分の幼さが、たまらなくもどかしく情けなかった。そういう涙であり、嘆きだった。
 それを安羅が受けとめてくれている。おそらく安羅は人を抱くことになれた男で、かげんを心得ていた。その腕のなかは、実際のからだつきよりもふかく思われ、鳥貝にとっては身をゆだねることの気恥ずかしさよりも、安らぎのほうが勝っていた。〉
 虚構を人工的に組み上げながら、だが描かれる関係性は、リアリティの地平においてもフェアである。ほんものの世界でふと感じることのできる、もしくは感じたいと願う関係性が描かれることで、読み手の心にリアルが生まれようと欲する。
 だからこそ、小説は虚構を選び取るべきなのだ。虚構の少年たちは、重力から逃れる唯一の道筋を知っている存在なのである。見えない翼を使って彼らが、われわれの心に向かって翔ぶとき、それはほんものになるのだ。
(よねみつ・かずなり ゲーム作家・立命館大学映像学部教授)

『白いひつじ』 詳細
長野まゆみ・著

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