2009年度マイベスト1/風間賢二

 傑作である。2009年度マイベストNO.1作品だ。ただし、“マイベスト”と冠がつくところが本書のミソ。つまり、不肖風間が狂喜乱舞するような作品ということで、誰にでもお勧めできるものではない。
 シュルレアリスム、マジックリアリズム、メタフィクション、アヴァンポップ、スリップストリーム、ポストモダン小説といったぐあいに呼称は多々あれど、ようするにアンチ・リアリズムに目がない風間が声を大にして言う本年度最優秀作品であるから、起承転結を備えた予定調和的な結末に向かって直線的に進行する、地に足のついた物語に慣れ親しんでいる読者にとっては、かなり面くらわせられることになるだろうし、人によっては脳を破壊されかねないほど濃密にして迷宮的、かつ幻覚的な内容の長編である。
 なんてことを最初に述べてしまうと、ほとんどの読者が恐れをなしてしまうだろうから、いそいでことわっておく。本書を読むにあたって、なにも実験小説マニア、あるいは文学的マゾヒストである必要はない。たしかに、小説読みの初心者向けではないが、中級以上の小説の愛読者(ことに海外の純文学ファン)であるなら、本書は興味深く読了することができるだろう。なにしろ、母の子に対する深い愛にまつわる物語なのだから。
 本書の基本的な時代設定は二○○四年から二○八九年まで(二○○一年と二XXX年といった過去と未来も挿入されているが)。主人公はクリスティン・ブルーメンサル。物語に登場する時点では、二十二歳のシングルマザーである。彼女のひとり息子が三歳のカーク。舞台はロサンゼルスだが、そこはもはやわれわれの知る大都市ではない。街の中心地に湖が突如出現し、しかもその巨大な水溜りは刻々と水嵩を増して陸地を浸食していき、建物がつぎつぎと“死滅”していく状態だ。英国のSF作家J・G・バラードの描く黙示録的世界(『沈んだ世界』や『結晶世界』のような終末後の世界)である。
「真のSF小説の第一号は、健忘症の男が浜辺に寝転んで、錆びた自転車の車輪を見つめつつ、両者の関係性の究極的な本質をつきとめようとする、そんな物語となるはずだ」とバラードは述べているが、本書は、ある意味、「真のSF小説の第一号」たらんとする意気込みさえ感じられる、シュールなランドスケープを背景に物語られていく。
 クリスティンは、その日々増水していく謎の湖に恐怖心を抱くようになる。というのも、その湖が愛する我が子を奪い取ろうとしているように思えてならないからだ。彼女は息子のカークとともにゴンドラで湖の中心へと漕ぎ出す。そして、湖底にあって水を噴出している穴をめざして飛び込み、湖の正体を見きわめようとする。
 ここまでは超現実的な夢のような風景を別とすれば、狂気にまで高められた母性愛に憑かれた女性の物語として普通に読める。だが、本書を特異な作品にしているのは、これ以降の展開なのだ。残りのパートは、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディック的な複数の可能世界や改変歴史の世界が語りの人称やキャラクター、時間軸のめまぐるしい変容とともに織り成されていく。言うなれば、カオスの小説化、たとえるなら、デイヴィッド・リンチ監督が『バタフライ・エフェクト』をリメイクしたような感じ。そうした語りのメタモルフォーシスを視覚化するかのように生成変化していくタイポグラフィも本書の特色のひとつ(実験的レイアウトも必見だ)。と言っても、マーク・Z・ダニエレブスキーの『紙葉の家』とくらべれば前衛的ではないのでおじけづかないように。
 このようなカオス=湖=クリスティン=記憶=意識=イメージのめくるめく錯綜した螺旋状の迷宮世界を挫折せずに読み通せるのは、作者が実験小説のための実験小説を創作することよりも、あくまで人間の感性と情念を今日の視点から描くことに腐心しているからだが、そもそも幻妖な世界と複雑ながらも詩的な語り口を、読みやすくかつ流麗な日本語に移し替えた訳者の技量があってこそのしろものだとつくづく感心させられた。
(かざま・けんじ 幻想文学研究家)

『エクスタシーの湖』 詳細
スティーブ・エリクソン・著 越川芳明・訳

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