〈声〉なき幼児期への帰還──アガンベン『言葉と死』/田中 純
西洋哲学は人間に「言葉を話す動物」や「死すべき存在」といった定義を与えてきた。では、言語活動と死のあいだにはどんな関係が存在するのか──ジョルジョ・アガンベンは『言葉と死』で、ハイデガーの『存在と時間』やヘーゲルの『精神現象学』を手がかりに、この問いに迫ろうとする。
壮大な企てだ。 ハイデガーが用いる「Dasein(ダーザイン)」の「ダー(そこ)」という指示詞に着目し、これによって指示されているのは「言語活動が生起する」という事実そのものであるとアガンベンは指摘して、さらにそうした指示が可能になるための条件を、人間特有の「もはや音声ではなく、なおも意味ではない」〈声〉に見定めてゆく。中世ヨーロッパの神学・論理学・文法学にまで及ぶ博識を駆使した論述の展開は、緻密でありながら唖然とするほど高速で、われわれは一挙に、「言葉は死の声であると同時に死の記憶でもある」、あるいは「死の思考とは〈声〉の思考なのだ」といった鮮烈な命題に遭遇させられることになる。西洋における哲学も詩も、言語活動の生起という出来事それ自体としての〈声〉へと向かう。著者は哲学者たちばかりではなく、一三世紀の吟遊詩人や一九世紀イタリアの詩人レオパルディの作品を論じて、その軌跡を描き出す。
では、〈声〉から逃れることはできないのか、〈声〉をもたない言語活動とは何なのか。この点に関連し、犠牲をめぐる暴力が論じられた一節には、のちの連作を予告する言葉が現われる──「homo sacer(ホモ・サケル)」と。序論でアガンベンはすでに「もし人間が言葉を話す存在でも死すべき存在でもなかったとして、それでもなお死ぬことも言葉を話すこともやめることがないとしたら、どうなるのか」と自問していた。言語活動と死の本質的関係をめぐる『言葉と死』の探究は、やがて『アウシュヴィッツの残りのもの』が取り上げることになる絶滅収容所の「回教徒」と証言の問題に結びつく。
「いかなる〈声〉によっても呼びかけられることなしに言語活動のうちにとどまりつづけていること、死の声によって呼びかけられることなしにただ単純に死ぬこと」──この「もっとも底の知れない経験」の貧しさこそ、アガンベンが言うように、人間本来のエートスなのだとすれば、それはホモ・サケルや回教徒によって体現されていたものではないか。そして、証言不可能な回教徒に代わってプリーモ・レーヴィのような収容所からの生還者たちが行なう証言は、もはや〈声〉によって根拠づけられた哲学や形而上学の圏内にはないのではないか。『言葉と死』に引かれた詩人カプローニの詩の一節「わたしはわたしがかつて一度も/いたことのなかった場所へと戻っていった」は、『アウシュヴィッツの残りのもの』における「証人の言葉はかれがまだ言葉を話していなかった時代について証言しており、人間の証言はかれがまだ人間でなかった時代について証言している」という一文に正確に対応しているように思われる。
『言葉と死』が定位するのは人間の「いまだ言葉をもたない(in-fantile)」住処である、とアガンベンは言う。それは決して存在したことのない幼児期だ。レーヴィは解放後のアウシュヴィッツで、三歳くらいの「フルビネク」と呼ばれる幼児に出会っている。ある時、この幼子はひとつの言葉を繰り返すようになる。mass-kloあるいはmatiskloと。誰にも解読できなかった秘密の言葉。一九四五年三月初旬に死んだフルビネク、名前なき「言葉なき者」。mass-klo, matiskloという非-言語を、では、生き残って証言する者はどのように語ればよいのか。『言葉と死』がエピローグ「思考の終焉」でたどり着く「語る者」の倫理は、この証人の倫理へと一直線に通じている。
(たなか・じゅん 東京大学准教授)
『言葉と死――否定性の場所に関するゼミナール』 詳細
ジョルジョ・アガンベン・著 上村忠男・訳
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