科学の子が出会った日本語のパトス/加藤重広

 子供の頃に夢見た21世紀は、自家用車が空を飛び、地球のどんな場所へでも短時間で思うがままに移動できるだけでなく、電話に自動翻訳機が組み込まれていて世界中の誰とでも話ができる世界だった。かつての空想のいくつかは部分的に実現しており、翻訳ソフトも開発されているが、空想したような自動翻訳機は実現不可能ととうにあきらめている。人間が口にする「生のことば」にはデジタル処理できない部分がどうしても残ってしまうからだ。いや、デジタル処理できない「あそび」があるからこそ、ことばに微妙な思いがのせられるのだ。
 私も、当時の多くの子供がそうであったように科学万能を無条件に信じる「科学の子」であり、「デカルトの子」だった。科学や論理がこの世のすべてを余すところなくきれいに解明してくれると信じていたのは二十歳になる頃までだろうか。その後、ことばを科学的に研究することを生業にしたデカルトの子は、むしろ、科学的に扱えないところ、論理的に処理しない方がいい部分にこそ、エッセンスが隠れているのではないか、と思い始めた。とは言え、科学的かつ論理的にことばを捉えるのだから、「ニュアンス」などと呼んで白旗を掲げながら行軍したくはない。それなら、いっそ、全部ひっくるめて鳥瞰図を描いてみたら、新しい見通しが拓けるんじゃないか。それが、往生際の悪い科学の子の最後の抵抗でもあった。
 理屈だけでも、気持ちだけでも、説明できないが、両方をうまく組み合わせると、うまく説明がつく。「あんなこと言わなきゃいいのに」に続いて思う「こう言えばいいじゃん」を、言語学の知識を背景にまとめたのが、拙著『その言い方が人を怒らせる』だ、と言ってもいい。ロゴスしか知らないデカルトの子が日本語のパトスに出会って悪戦苦闘した軌跡でもある。副題に「ことばの危機管理術」とあるように、プレゼンや会見でしくじらないための考え方や方法論を縦糸にしつつ、日本語の表現上の「癖」を文化的・言語学的に捉え直すプロセスを横糸に、 物語を織り上げるように書き進めた。
 テレビのニュースで見ない日はないと言っていいほど毎日どこかで行われている謝罪会見も、実例をいくつか取り上げているが、これは文化的にも、言語学的にも、社会学的にも、ほんとうに興味深い。しかも、どんな職種でも、公的に謝罪したり、事情を説明したりしなければならない事態が生じうる時代である。説得を試み、評価を勝ち取ろうとするという点では、この種の会見やトラブルの事後処理も、プレゼンと共通するところが多い。むしろ、批判的で攻撃的な相手を前にうまくソフトランディングできる地点を探りながら進まなければいけないという意味では、相当に難易度が高いというべきだろう。
 ことばの危機管理が必要なことは、企業など組織のトップの失言がどんな事態を招くかを考えるとわかりやすい。しかし、ネットが普及した現代にあっては、個人にもことばの危機管理が重要である。一定の知識と戦略があれば、ブログの炎上だって回避できるかもしれないのだ。
 科学の子が思い描いた未来は、開放的で自由度の高い世界だった。日本語や英語なんて狭い世界を考えないで、宇宙人とも自由に話せるような時代を考えようよ、そんな気分だった。しかし、21世紀の日本を見る限り、むしろ閉塞感が強く、どんどん世界を広げようという気分よりは、内向きのベクトルが支配的だ。隣人のちょっとしたことばに繊細に反応し、空気を読むことが求められる時代。「細かいことはいいじゃん」ではなく、「微妙な違いをことばや雰囲気から適切に読み取れ」という時代になった。『その言い方が人を怒らせる』という本は、ことばの危機管理を考えつつ、現代のコミュニケーションの意味も掘り下げようという、「科学の子のなれの果て」の「パトスのおじさん」のささやかな企みでもある。
(かとう・しげひろ 北海道大学准教授)

『その言い方が人を怒らせる――ことばの危機管理術』 詳細
加藤広重・著

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