二 一 世紀の「知識人」とボードリヤールの遺言/塚原史
二一世紀も十年目に入った昨今、もはや二〇世紀の延長としてではなく、新しい時代としてこの世紀を語ることがあらたな習慣になっているといってよいだろう。9・11から気候大変動への世界規模の取り組みへといたる展開は、敵か味方か、体制派か反体制派か、といった旧来のイデオロギー的二項対立では捉えきれない事態をもたらしている。こうした視点から、「知識人」という概念を再考するとき、一九世紀末フランスのドレフュス事件を起源とするインテリ(Intellectuels)のイメージは、すでに大きく揺らいでしまったのではないだろうか。
二〇世紀型の「知識人」とは、たとえばリオタールが『知識人の墓標』でもう四半世紀も前に書いたとおり、「人類、国民、民族、プロレタリアート等々の場所にみずからを位置づけ、その視点に立って状況を分析し、これらの人びとの自己実現のために何をなすべきかを処方する精神」だった。けれども、近代以前の神の福音の代弁者さながらの、知の司祭としてのこの種の知識人の「処方」は、インターネットやマルチメディアの発達も手伝って、二一世紀を待たずにもはや必要とされなくなってしまったかのようだ。レヴィ=ストロースと加藤周一の死は、そんな知識人の時代の終わりを象徴していた。
つまり、支配者と被支配者、権力者と大衆等々の垂直的関係の中間に位置して、上位者を批判し下位者を啓蒙する「知性」の存在は、こういってよければ知の「グローバル化」(世界と人間の先端的認識が地球規模で圧倒的多数に発信・受信される段階)を前にして、すっかり影が薄くなってしまったのだが、こんな話をするのは、ジャン・ボードリヤール(一九二九―二〇〇七)の新著『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』の邦訳を手がけたことがきっかけになっている。
ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で世界の論壇に登場してから、もう四〇年になるが(今村・塚原の邦訳は三〇年前)、このさまざまな意味で個性的な思想家は、それ以来一貫して、客体=モノと他者性の側から現代社会を考察し、あの垂直性を失効させる企てを試みてきたのだった。とりわけ、二〇〇三年秋、最後の訪日の際に、出来事の事後的分析にとどまる批判的思想に代わって、それ自体が予期せぬ出来事となる「出来事としての思想」を提案したことは記憶に新しい。その翌年、彼は『悪の知性』で「人間が世界のことを考えているのではなくて、世界が人間のことを考えているのだ」という謎めいた言葉を残したまま、二〇〇七年に七七歳で他界した。
彼の言葉は、いまや世界=地球が、限度を超えて生環境を悪化させてしまった人類の「消滅」という戦略を選択したと読むこともできるが(このままだと生物は壊滅的な打撃を受けエネルギーは枯渇し、人類は存亡の危機を迎える)、ボードリヤールがその遺著で語ろうとしているのは、まさに「人間が消滅したあとの世界」についてなのである。この辛辣な哲学者は、すでに『シミュラークルとシミュレーション』などで、記号化・情報化社会の果てに「現実」が消滅する時代を予告していたが、予言が実現した後で訪れるのが「〔ヴァーチャル化した〕現実のあらゆるすき間で、主体が無限に分割され、意識が粉々に砕け散る連鎖反応による消滅」だというわけだ。著者の旧友で社会学者のエドガール・モランは二〇〇五年に「ボードリヤールは冷静な父親のように黙示録のときを生きている」と書いたが(今回の邦訳解説に収録)、『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』は、まさに「冷静な父親」が後続の世代に残した型破りの遺言書となっている。
その表題からも難解な書物のようだが、前回のサッカー・ワールドカップ決勝でのジダンの頭突きのユニークな解釈や、アナログとデジタルの写真論など豊富な内容で、ボードリヤール・ワールドの余韻を満喫することができる。カバー装画には、世界的な写真家でもある著者自身の作品を使用することができた。ぜひ手にとっていただきたい一冊として自薦しておく。
(つかはら・ふみ 早稲田大学法学部教授)
『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』 詳細
ジャン・ボードリヤール著 塚原史訳
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