十三冊のパスポート/堀田百合子

 父・堀田善衞は、一九八六年から亡くなる直前の一九九八年六月まで、十二年余にわたり『ちくま』誌上で同時代評としてエッセイを連載していました。このたび、紅野謙介先生にセレクションをしていただき、その内の七十一篇を『天上大風』(ちくま学芸文庫)として出していただくことになりました。
 毎月、四百字詰めで六、七枚の原稿を書くにあたっては、決してすらすらと書いていたわけではなかったと思います。
 あるときは、ネタがない、ネタがないと言い、新聞をひっくり返し、雑誌を開き、うろうろとネタとなるべき何かを探し、再び、ない、ないと騒ぎ、おでこをぴたぴたと打ちつつ書斎へと消えて行ったこともしばしばでした。


 父の死後、書斎の引き出しのあちこちから使用済みのパスポートが何冊も出てきました。
 一九五六年のインド、ビルマ、タイ、香港行きをはじめとして、一九八九年の西ドイツ、ベルギー、フランス行きまで、合計十三冊。出入国の印を数えていくと、判読できるものだけで三十六カ国でした。
 インド、ビルマ、タイ、香港、中国、ソビエト、スウェーデン、フィンランド、フランス、エジプト、レバノン、スペイン、デンマーク、セイロン、シンガポール、キューバ、カナダ、メキシコ、東ドイツ、西ドイツ、アルジェリア、シリア、イタリア、オーストリア、イギリス、チェコスロバキア、マレーシア、ベトナム、アメリカ、ポルトガル、オランダ、アンゴラ、ブルガリア、ベルギー、スイス、モロッコ等々。


 父の旅には、私も何度も付き合わされたものでした。
 あるときは、地図にも載っていない南フランスのローマ時代の橋を探して車を走らせ、やっとの思いで探し当てた小川のほとりで、父はしばし座り込み、タバコを一服、川の中から石ころを一つ拾い、
「もう分かった、帰るか」
 到着からおよそ十五分でした。
 あるときは、スペイン・ピレネー山中の村はずれ。車止めがあり、その先は歩かねばならない。父は車止めに寄りかかり、辺りを見回し、山の上を指さして、
「ちょっと上まで見てきてくれ」
言われたとおり私は山を登り、かつてはロマネスクの教会だったらしい、わずかに残る石壁を見て、ぐるっと見回し、同じ道を戻ってきたのでした。
「どうだった?」
「石の壁だけ」
「そうか、では帰るか」
 代理見物を仰せつかることは、時々ありました。


「物見遊山はしない。仕事に必要か、自分が行くべき、見るべきと思ったところへだけ行く。どこまでも行く」
 これが父の旅の鉄則でした。
 ただ、遊山はしなくても、物見はしていたのでしょう。
 父の物見には、直接見る、聞くということだけではなく、地続きを体感し、空気感を得るというようなことも含まれているようでした。
 パスポートに印されたさまざまな国、都市で出会った人、見聞きした事象に、そして読んだ新聞、雑誌、書籍に、驚き、呆れ、当惑し、歴史と絡み、現在と絡み、ネタがないと騒ぎつつも、物事が充分に発酵するのを辛抱強く待つ、その時間の堆積が『天上大風』の十二年間だったのではないでしょうか。
(ほった・ゆりこ)

『天上大風――同時代評セレクション一九八六―一九九八』 詳細
堀田善衞著 紅野謙介編

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