癒しと贖いの神の来歴/西谷 修
『レバノンの白い山』という、それ自体ある種「霊的」と言えなくもないタイトルの本を初めて読んだとき、それまでの自分のキリスト教理解に風穴が開いたように思った。ひとは自分たちの生きる世界の成立ちや来歴を知るために、歴史を遡ってその形成過程をたどりながら、世界理解の枠を作っている既定条件を探ろうとする。筆者も、現代世界の範型である西洋的近代を生み出した精神的・制度的土壌たるユダヤ・キリスト教の伝統に関心を寄せてきた。ところが、その理解の行き着く奥底が実は厚い霧によって覆われており、その霧を晴らすと、イエス信仰がまったく違う風土のなかに洗い出されるという思いを味わったのである。それ以来、山形孝夫はわたしの「白い山」になった。
このたびちくま学芸文庫の一冊として新たな生を得ることになる『聖書の起源』は、山形がその仕事をもとにして書いた、圧倒的な知的冒険の書である。キリスト教はユダヤの民の伝統から離脱し、四つの福音書と使徒行伝を新しい信仰共同体の機軸としたが、同時に、その出自であるユダヤの民の聖典を、「救い主」の訪れを預言する「旧い契約」の書として取り込んだ。だからキリスト教の聖書というと旧約・新約の二つを含むことになるが、この本はその二つの聖書の根本モチーフを明らかにしようとしたものだ。
それはある意味で法外な企てでもある。キリスト教徒は長い間ユダヤ人をその信仰のゆえに迫害し、ヨーロッパにナチズムの惨劇を生み出すほどの確執を演じてきた。そのユダヤ人の書物とキリスト教徒の聖典とを、同じひとつのパースペクティヴのなかに置くという試みだからだ。キリスト教神学の立場に立てば、終末論的救済史観の民族的枠組みから普遍宗教への脱皮を印すものとして、二つの連続性を容易に打ち立てることもできるだろう。けれどもそれは、確立されたキリスト教の立場から回顧的に言えることである。
山形が言う「起源」とは、聖書の生まれ出づる源泉のことであり、キリスト教がすでにわれわれの了解の枠組みをなしている現在から遡及的に構想される起源ではない。当然ながらその探求はキリスト教的理解の枠をはみ出ることになる。
山形はまず旧約を、土地取得の苦難を負う民の「のぞみ」が生んだ書物であるとする。そして新約は、ナザレ人イエスがキリストであることを証するためにまとめられた。数百年の時を隔てたその二つの違った要請を結びつける土壌として山形が呈示するのが、この地域の土俗の神々のイメージである。豊饒の女神と、死と再生を演じる婿たる男神、アナトとバァール、アフロディテとアドニス、そしてその変種としての病なおしの神々、エシュムンやアスクレピオスなどだ。それらを崇める風土が、この地に定住したユダヤの民の神やねがいを変容させ、やがて十字架の上に死ぬイエスを生むことになる。
その風土を背景に、救い主イエスは遊行する治癒神として登場する。ここがこの本の白眉なのだが、イエスが治癒神としての衣裳をまとい、当時東地中海地域で影響力のあった医神アスクレピオスを奉じる教団と競合したという仮説は、後の教会の与えるイエス像をすっかり書き換えるとともに、かれのもたらした「救い」とは何だったのかを人類学的視野からあらためて考えさせる。アスクレピオス教団との確執は、コンスタンチヌスのキリスト教改宗と帝権による異教排除で決着がつけられたという推定は、エピダウロス碑文発見の逸話によって十分な説得力をもつ。そしてこの事情は、キリスト教それ自体が西洋における知的制度の枠として、どれほどわれわれの認識を拘束しているかということにも気づかせるのである。
このことはまた、広く「救い」や「癒し」について、宗教と医療との関係について豊かな示唆を含み、人びとがキリスト教の支配下で生きた千年の間、なぜ医学がまったく停滞していたのかという謎について、さらには近代以降の西洋医学の傾向についても、得がたい光を投げかけてくれる。これについては、いま準備中の「医療思想史」で展開しようと考えている。
(にしたに・おさむ 東京外国語大学教授)
『聖書の起源』 詳細
山形孝夫著
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