新たな一歩/万城目学

 いつか、小さな女の子の話を書いてみたいと思っていた。
 活発で、おしゃまで、でもどこかズレていて、いつも目がキラキラしているような女の子の話。別に男でもいいはずなのに、すっと立ち上がり、遠くを見つめる絵を思い浮かべたとき、どうしても私は、男の子より女の子のほうに、毅然とした雰囲気を勝手に思い描いてしまう。まあ、自分が実際に経験した道ゆえ、小学校低学年の男はひたすら阿呆なだけで、夢見る隙間もない、ということをよくわかっていたからかもしれない。
 加えて、猫の話もいつか書いてみたいと思っていた。
 これは私が住んでいるところに野良猫が多く、あちこちで猫を見かけるうち、何だか連中にも社会があり、個々のポリシーがあるように思えてきたことに端を発する。どの猫も、まったくかわいげがなく、ゴロツキ同然の風体で道を平気で横断し、目が合うや「シャウワッ」と威嚇してくるどうしようもない不良猫である。だが、それなりに苦労して生きているのだろう、と私は寛容の心をもって連中を観察するうち、いつの間にか小説に登場させてみようという気になっていた。連中はなかなかに、小憎らしくも味わいある生き物だったのである。
 さらに、一度、歴史をからめない話を書いてみたいと思っていた。
 これまで私の小説は、京都・奈良・大阪を舞台にして、その土地の歴史をからめたストーリーを展開させるというやり方を採ってきた。下調べにそこそこ時間がかかるし、東京から現地に何度も足を運ばなければならない。お金もかかれば手間もかかる。ああ、都内のオフィスビルを舞台にした小説だったら、こんな面倒な準備は必要ないのに、シンプルな材料できっとサラサラ筆が進むのに、などと勝手なことを並べうらやんでいた。一度くらい、部屋から一歩も出なくても書ける仕事をしてみたい、と要は「楽をしたい」と夢想しがちであった。
 それゆえ、これらの思いをいっしょくたにまとめて、私は一本の小説を作ることにした。すなわち、小さな女の子と猫が登場し、歴史ある特定の土地を舞台にしない小説である。
 もっとも、部屋から一歩も出ないというのは、さすがに無理で、小学校へ見学に行っては、子どもたちのほとばしる元気さに圧倒され、猫カフェに行っては、まったく動かない猫たちに拍子抜けして、とそれなりに準備はした。ちなみに、私は猫アレルギーなので、猫だらけの部屋に入っただけで鼻がむずむずし、猫には指一本触れなかった。当然、店員さんは変な目でこちらを見ていた。
 さて、書き始めて愕然としたのは、想像と異なり、まったくサラサラとは筆が進まなかったことである。
 つまり、これまで小説を書く上で、私の筆がなかなか進まなかったのは、別に小難しい題材に原因があったわけではなく、単に私という個体に問題があったことが判明したのである。
 これは残念な事実だった。
 一度くらい、サラサラと筆を進めたかった。
 結局、楽に小説を仕上げる方法はない、と子どものような反省をしながら書いていたら、“小説の神様”の癇に触れたか、フットサル中にアキレス腱を断裂した。その二週間後には、直木賞に落ちた。その後、心と身体のリハビリに励みつつ、何とか書ききった『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』には、私がむかし中勘助の『銀の匙』を読んだとき感じた、
「どうして、こんなにおさない頃のキラキラとした感覚を、この人は覚えているのだろう」
 というくやしさにも似た驚きを、自分も文章を通じ表現したい、という結構図々しい挑戦がこめられている。
 こうして無事本になるに際し、家のまわりにいたあの猫たちにお礼を言うべきだろうが、執筆の途中に引っ越したため、もう二度と会えないことだけが心残りだ。あのマドレーヌ夫人のモデルになった、ずんぐりしたアカトラは今も元気かな。
(まきめ・まなぶ 作家)

『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』 詳細
万城目学著

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