ブーレーズによる音楽の新しい呼吸法/笠羽映子

 この三月、八五歳の誕生日を迎えるフランスの音楽家ピエール・ブーレーズは、第二次世界大戦後の欧米芸術界において、作曲家、著述家、指揮者、さらに組織運営者として類稀な活動を弛まず続けてきた人物である。
「私は、ぎょっとして、『祭典』の新しい呼吸を発見していた。私たちは皆、何年も前からよく知っているつもりの誰かについて意外な事が明らかになる際のように、仰天していたと言ってもよい。私の目はブーレーズに、つまり彼の腕や彼が指先で作り出すものに釘付けになっていた。彼はまるで水脈占い者のように、オーケストラの上に身を屈めていた(M・ベジャール)。」
 本書収録の論考「ストラヴィンスキーは生きている」を書いてからほぼ十年後、一九六二年八月、ブーレーズはザルツブルク音楽祭で『春の祭典』と『結婚』を指揮した。オーケストラはヴィーン・フィル、モーリス・ベジャールの二〇世紀バレエ団の公演のためだった。翌年、『祭典』初演五〇周年を記念して、初演されたパリのシャンゼリゼ劇場で再び『祭典』を指揮し、後者の様子は、同じフランス国営放送管弦楽団を指揮して同年行なわれた録音で窺うことができる。後年、その演奏を振り返って「緊張に凝り固まった演奏で、極度に神経質」と述べているけれど、ブーレーズが本格的なオーケストラ指揮者としての活動を始めたのは、それらのほんの数年前からだった。しかし他方で同時に、実に精力的な創作活動を展開していたことも確かな事実である。
 今回、「ちくま学芸文庫」で『ブーレーズ作曲家論選』をという企画が持ち込まれた時、同文庫で先行する音楽関係の本に、武満徹、ジョン・ケージの書物があり、相変わらずブーレーズはむしろ指揮者に分類され、売れ行きという昨今の最大重要事項を考慮する場合、他者を語る著作が採り上げられざるを得ないのかな、という懸念がなかったと言えば嘘になるかも知れない。もっとも、ブーレーズ自身、近年に至っても、指揮することが好きだと公言しているし、指揮活動や「他者への眼差し」(『作曲家論選』の一応のベースとした著作集のフランス語原題名)は、彼の現代音楽芸術のための活動の重要な一翼であり、私たちもその恩恵に与っているわけだ。
『論選』の序章として訳出した「テクスト、作曲家とオーケストラ指揮者」は、一九九〇年代に行なわれた講演原稿に基づき、イタリアおよびフランスで二一世紀に入って刊行された音楽百科事典に収録されたものであり、近年の「コミュニケーション」を大事にするブーレーズの姿勢を反映させた読み易いものとなっている。「私は、スコアの全体的な軌道を見失うことなく、その詳細を検討しながら、私のスコア読解にできるだけ近い演奏を手に入れようと努める。結局のところ、私には分かっているのだ。指揮をするよりも作曲する方がどれほど困難であるかが……」という件は、作曲家・指揮者のペンのもとに読む時、そしてブーレーズの指揮を見聞きしている者にとって非常に説得力に富む。
 コンパクトで読み易さを旨とすべき『論選』で、長大かつ譜例や図版の多い論考「ストラヴィンスキーは生きている」を敢えて再訳出したのは、やはり若き日のブーレーズの精緻かつ情熱に溢れた作品分析をできるだけ的確なかたちで多くの読者の方々に知っていただきたかったからである――例えば、バルトークの『中国の不思議な役人』やマーラーの交響曲等についての詳細な作品分析も目にしたいところだが、そうしたことに割く時間はその後なかったのだろうし、彼の指揮による素晴らしい演奏が論考の代わりを務めてくれるとも言えるだろう――。
「静寂の中で、他のものに耳を傾けるのはとても難しい。他の思考、他の物音、他の響き、他の考え。耳を傾ける段になると、人々はしばしば他のものの中に自分自身を再発見しようと努める(ルイジ・ノーノ)。」ブーレーズの音楽活動、著述は、私たちの音楽観や音楽聴取の再考を促し、語るブーレーズ自身「自分の思考を言葉で掃除していく(ベジャール)」。
(かさば・えいこ 早稲田大学教授)

『ブーレーズ作曲家論選』 詳細
ピエール・ブーレーズ著 笠羽映子訳

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