ヘミングウェイの描いた「軽く薄いもの」たち/西崎 憲
世のなかには不思議なほど頻繁に怪我をしたり事故に遭ったりする人がいて、どうもそういう人間は事故にあう「才能」に恵まれているらしい。もちろんそれは嬉しくない才能であるわけだが、反面良いほうの才能も豊かに持っていたり、でなければ思いがけない幸運に恵まれたりもしているようなので、要は普通の人間より運命の振幅が大きいということなのかもしれない。
アーネスト・ヘミングウェイ、アメリカ文学を代表する作家、「マッチョ」「パパ」「コード・ヒーロー」「氷山の理論」などの数々の神話的タームで語られるノーベル賞作家は、まさしくそういった人物だった。
ある時は酒に酔ってトイレの紐を間違えて引っ張って天窓を頭に直撃させ、ある時は狩猟旅行中に車の事故で腕を骨折し、海では船上に釣りあげた鮫を二二口径の拳銃で撃とうとして自分の脚を撃ち、あるいは同じ海域で二度座礁し、山では山火事にあって重度の火傷を負う。
極めつけはコンゴで二日連続飛行機事故に遭ったことだろう。ヘミングウェイは四番目の妻メアリーとともに飛行機でマーチソン滝を観に行く。飛行機は電線に触れ墜落する。新聞に死亡記事が出る。けれど一行は川船に拾いあげられ、翌日べつの飛行機でエンテベという町に向かう。しかし今度はその飛行機が火災を起こし、ヘミングウェイは頭でコックピットのガラスを割ってからくも脱出する。新聞にはまた死亡記事が出る。
そうしたエピソードがヘミングウェイの書いた小説に関係があるとは思えない。また別種のもの、対人関係におけるつぎのようなエピソードも小説には関係ないだろう。
父が自殺した後、ヘミングウェイはあまり反りがあうとは言えない母親のために、出版社と二度目の妻ポーリーンの叔父から五万ドルを借り、信託基金を設置する。また離婚した最初の妻ハドリーのためにゴヤのリトグラフを三枚購入する。加えて精神病院に入院した詩人エズラ・パウンドのためには見舞金や基金などで二千五百ドルを遣っている。
そうした話は興味深いものであるが、ひとまず「マッチョ」や「パパ」とあわせて念頭から消し去るべきだろう。なぜなら、この短篇集に収められた作品を形成している要素は表面的な感触では長篇のそれよりも軽く薄いもので、その軽さ薄さゆえにヘミングウェイの実人生の風圧で簡単に吹き飛ばされてしまう恐れがあるのだ。
しかし、ここにある薄く軽いものもまたヘミングウェイであった。いやもしかしたらそれこそが本質であったかもしれない。人間あるいは作家に本質というものがあるとしたら。
いずれにせよ、先入観というのはあまりに固定化していると肩がこるものではないだろうか。晩年のヘミングウェイは自分が作成に関与していたにもかかわらず、「ヘミングウェイ」という大きな物語のなかでどこか所在なげにしていた印象がある。
収録した十四篇の短篇のうち二作、もしかしたら三作は、史上最高の短篇小説の栄誉に値するほどの飛んでもない作品である。それは何も訳者の贔屓目からの言葉ではない。ヴァージニア・ウルフは「白い象のような山並み」に例外的な共感を寄せ、ジェイムズ・ジョイスは「清潔で明るい場所」を「完璧な作品」と賞賛した。また「殺し屋」はアメリカの小説の文体に決定的な影響を与えた。
ヘミングウェイはすでに述べたように、短篇においては小さなもの、薄いもの、静かなものをまず見た。そして夜のカフェ、耳の聞こえない老人、背中を伸ばして前を見ようとする女たちについて書いた。さらには人が真の意味では大人にならないこと、成長もしないのではないかということについて書いたようでもある。ヘミングウェイはそのことについて結論は述べていない。もちろんそれでいいのだろう。結論を述べることは短篇小説の役目ではない。
(にしざき・けん 翻訳家)
『ヘミングウェイ短篇集』 詳細
西崎憲編訳
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第638号24年5月号
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3