神話としての都市表象/張 競

 近代日本文学において、上海ほど頻繁に小説にあらわれてくる都市は珍しい。ニューヨークもパリも作家たちの想像力を掻き立てたが、小説の舞台として描かれたのは、やはり上海のほうが圧倒的に多い。
 おそらく地理的な距離の近さも原因の一つであろう。しかし、理由はそれだけではない。こと上海に対し、日本人読者はつねに特別な好奇心を持っているようだ。
 アヘン戦争後、上海には東洋はじめての西洋風の街が出来た。幕末の日本人はいっとき上海という窓を通して欧米文化の軽薄な複製をのぞき見た。だが、明治維新が成功し、近代化を遂げると、日本人にとって半植民地の上海は亡国の象徴となった。「魔都」――「人を惹きつける不思議な力を持つ都市」と「人を堕落させる魔力を持つ町」という二重の意味が込められている言葉には、この異形の都市に対する憧憬、嫌悪、好奇と畏怖の感情が複雑に込められている。村松梢風が「発明」したこの言葉は上海に対する鋭い都市批評であるだけでなく、近代日本の心象をも示している。大正十三年、彼がこの言葉を自ら執筆した本の書名にすると、あっという間に上海の隠喩として流行するようになった。
 日本における中国像と上海像とは複雑な関係にあり、上海は決して単純に中国の縮図ではない。というより、両者はむしろまったく異なった連想を呼び起こすであろう。戦前の租界が象徴しているように、上海はよく「中国のなかの外国」と称されていた。この大都会は中国の一都市でありながら、中国的な特徴をほとんど持たない。西欧風の建物、さまざまな国籍の人が行き交う街、妖しく光るネオンサイン、ダンスホールで踊る美女たち。その光の一面が人々を惹きつける一方、その影の部分では強盗、博打打ち、詐欺師、麻薬の売人や売春婦たちが暗躍している。その矛盾した両面性は近代化を遂げた日本の作家たちの創作欲を大いに刺激した。
 一九三〇年代になると、日本人にとって上海はまた違った魅力を持つようになった。二・二六事件の後、軍部が政治に介入し、思想弾圧や検閲などにより社会が閉塞状態に陥った。日本国内を覆う息苦しさから抜け出し、いっときの解放を求めるために、人々はこのコスモポリタンの町に渡った。明治以来、上海は唯一パスポートを必要としない自由港であり、気軽に旅行できる「海外」であった。それに神戸―上海、横浜―上海のあいだに定期連絡船が往復する航路もできている。そうしたこともあって、昭和時代にも多くの作家たちが上海を訪れた。彼らはこの都市の無秩序のなかに、精神の自由が保てる空間を見いだした。
 戦後の長い空白期を経て、この町が再び注目されるようになったのは、中国が市場経済へ転換した後である。日々変化する上海が注目を集めるなかで、この大都会を舞台とする小説も多く創作されるようになった。
 近代日本の文学空間において「魔都」は事実であると同時に神話でもあった。あるいは事実である前にまず神話であったというべきなのかもしれない。神話は一夜のうちにできるものではない。また、たんに詩や小説など文学作品によって形成されるのでもない。見聞録や旅行記が果たした役割も大きい。劉建輝『魔都上海』はその両者に目配りしつつ、神話の起源とその後の展開を丁寧に再現した。
 文学作品にしろ、ノンフィクションにしろ、魔都を表象するテクスト群はメディアを通して流布し、人々の心のなかで二次的な鏡像を作る。誇張された他者像によってそそられた好奇心はさらなるテクストを欲望し、それに応えていっそう耳目を驚かす都市表象が生産される。そのような反復のなかで、魔都イメージは文化の地層に沈殿する。その意味では、上海にまつわる言説は他者表象であると同時に、つねに日本近代文化の自己投影でもあったのだ。
(ちょう・きょう 明治大学教授)

『増補 魔都上海 ─日本知識人の「近代」体験』 詳細
劉建輝著

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