新宿の贋ファウスト/平井 玄

「人間界は馬鹿者の小宇宙であって、いつも自分を一つの全体のように思っているが、こちらは部分の一部でありまして、初めは一切であったところ、後に闇の一部になりましてね。闇から光が生まれますと、傲慢なる光は母なる闇と、空間の争いを始めました」
 ご存じ、ある霧の夜、暖炉の後ろから放浪学生姿でファウスト博士の前に現れたメフィストフェレスが「遍歴」の旅に誘う口上の始まりである(池内紀訳)。さて、新宿二丁目の路地に生まれた私はどんな妖しい霧の中に迷い込んだのか、そこから半径一キロ圏内で起きたことだけをひたすら語るという、まさに「馬鹿者の小宇宙」のような本を書いてしまったのである。
 そういえば、戦後の焼け跡から身を起こして、東口の「闇市」をまとめ上げた関東尾津組が掲げた看板には「光は新宿から」と書かれていたという。テキ屋の喜之助親分の傍にはよほどの啓蒙的筋者(?)でもいたのか。瓦礫の「闇から光」が創世記のように生まれたわけだ。その露店に瞬くアセチレンの灯を、警察の強烈なサーチライト、流れ集まる鉄道の閃光やデパートの輝く宮殿、双胴の都庁タワーなんていう光の渦がみ込んで、路地裏を這う「母なる闇」を焼き尽くしていったのがどうやら「新宿」という街の二〇世紀後半だったようだ。
 初めはゲーテの戯曲のことなど頭になかった。それなのに書き進めるうち、なにやら酔っ払った贋ファウストの遍歴のようになっていく。「皇帝の城」も「ワルプルギスの夜」もないけれど、焦土から七〇年ほど遡ると、甲州街道に面した妓楼から飛び出した五歳の夏目金之助少年が突っかける駒下駄の音がカランコロンと聞こえる。逆に七〇年下ると、こんどはフリーターたちが練り歩くサウンドデモの爆音が南新宿の谷間に轟いているだろう。この間で、街道沿いの遊女屋は幼い芥川龍之介が遊んでいた父所有の牧場跡地に移されて「二丁目遊廓」になる。そして気がつくと、歌舞伎町を地回りする若松孝二の眼が光り、澁澤龍と高橋和巳が背中合わせのバーに通い、騒擾の街にボサノバは流れる。道という道はぐでんぐでんに酔い、人々は徒党を組んでのたうち回り、ビルの壁さえ踊り出した。そのあげく人々は追われ、建物も地面から次々と剥ぎ取られ、踏みつけにされて、すべてに蓋がされてしまうのである。街中がアクリルガラスのピカピカな牢獄になった。
 一九七〇年代に、ロラン・バルトやミシェル・フーコーが定宿にした裏ぶれたホテルが二丁目の角にあった。その裏道を、時代遅れな竹籠つき自転車に乗った私の影が走り去っていく。この街にごろごろしていた贋メフィストたちから手に入れた安物の霊薬は、洗濯屋の若造には効いていたのか。
 机の上で「一九六八年」を紙細工のように組み立てた研究者は、それは「自分探し」の幼い行動が儚くも崩壊した姿だったと言っているらしい。しかし、盛大かつ危険極まりない集団的な「遍歴」の様相を帯びることのない運動など、「変革」の名に値するのだろうか。むしろ幾世代にもわたる「世界探し」の旅といった方がいい。たった半径一キロほどの「針の穴」を私自身が抜けていく。そんな小さな「遍歴」を、はるかに遠い別の銀河星団の眼で眺めてみたかったのである。一〇万人が一人ひとり通っていった一〇万もの「針の穴」が絡み合った輻輳にこそ「一九六八年」がある。
 人生の「夜更け」を迎えたファウストのように「時よ、止まれ」とは言わない。この街に群がり起こった贋メフィストや、贋ホムンクルス、贋オイディプスや贋セイレーンたちが七転八倒する姿を描きたかった。贋グレートヒェンの麗しい姿が見えないのだけが残念だ。
(ひらい・げん 現代思想/音楽文化論)

『愛と憎しみの新宿 ─半径一キロの日本近代史』 詳細
平井玄著

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