「にでもする?」の響きがいい!/浅生ハルミン
読んでいるうちに、へぇ! すごいなあ! と驚いてしまった。おいしいものに接するときの奥深い姿勢に。引き込まれてこちらもいろんな出来事を思い出してしまうし、お腹はすくし、そういえば今うちの冷蔵庫にもあれがあったはずだと落ち着かなくなってくるし、こんなふうに『鰻にでもする?』は読む人のいろいろな感覚を刺激する、垂涎のエッセイ集なのだ。
「鰻にでもする?」は平松さんのお母さんが言った言葉である。「にでもする?」という響きがいいではないですか。
夏の夕方、鰻の蒲焼きを買ってきて、家で丼にして食べようとするとき、この声がお母さんの口から発せられる。幼き平松さんには「鰻にでもする?」は特別の日の号令のようなもの。一瞬にしてふんわりとした鰻の蒲焼きと、タレのしみ込んだ白いご飯を脳裏にうかべて恍惚となる。恍惚とした中で、幼き平松さんの心境はこんなふうだ。
「自分のうちの丼で食べているのに、よその味がした。夏のうち何度か食卓にのぼる鰻には、未知の世界をかいま見る興奮がいっしょについてきたのだった」
うう、その興奮わかります、私もそうだった。父母が外から持ち帰ってくるお土産の寿司や弁当を子どもの自分が食べるとき、自分の知らない外の世界の父母があるんだということが頭をよぎって、そのことがすごく寂しかった。ふだん食べないご馳走の、おいしいのと寂しいのが混じり合って、へんにどきどきしたことを思い出してしまい、こういうことって、ずっと忘れられないんだよなあ、匂いやずっしりとした丼の重さが、大人になった今も、ふと甦ってくるんだよなあ。よくぞ書いてくださったと、思いきり入りこんで読み耽ってしまう。
「いいのかなあこんな贅沢しちゃって。」と平松さんはあとがきでつぶやく。私が言うのもへんですが、贅沢というのは大人になってようやく、その醍醐味を享受できるのだと、しみじみ思う。大人の毎日は大変だ。身の回りのいろいろに目をつぶり、あちこち折り合いをつけてよっこらしょいと生きている。『鰻にでもする?』に書かれる贅沢は、そのような日々の営みのなかでよりいっそう輝くのではないかしら。到来物の食材を目の前にしたときに「これどうやって食べてやろうか」と、どこからか湧いてくる果敢な気持ち、「おいしいっ!」とにんまり顔になる一瞬、ああ生きててよかったと、ふだんの日々を肯定する。それで気分がうんとあがる。また明日も明るく生きてゆこうじゃありませんかと、元気な気持ちにさせてくれるのである。
しかし『鰻にでもする?』の贅沢は、どこの何が美味しかったといった平穏無事な贅沢ではない。骨の髄までしゃぶりつくす、平松さんの過剰なまでの探究心が食べる事と調理道具に向けられている。だからあまたある食のエッセイとは見事に趣きがことなる。話がとんで恐縮ですが、私はナマコの酢の物を見ていると、ナマコを最初に食べようと思った人はエラいなあ、もしその人がいなかったらこのナマコ酢もここになかったわけよね、と尊敬の念を抱いたりするのですが、世が世なら、もしかして平松さんはそのような方なんじゃないか、と思ってしまうくらいだ。世の人が思いも寄らなかった食べ物の側面を、かぶりつくようにして私たちに供してくれるのだから。それを私は食べることへの「偏愛」というのだと思った。
たとえば「輪ゴム」という一文は、子どもの頃の遊び道具としての輪ゴム、近所のおばさんの手首に食い込んだ気合いの輪ゴム、癪にさわる輪ゴム、どうしてこんなにあるのか輪ゴム、輪ゴムの成り立ち、「わ」「ご」「む」という語感について、やっぱり便利な輪ゴム……三ページほどの紙面で、輪ゴムにこれだけ考えを巡らしている人がいただろうか? さらに愛が深いなぁ、と感じ入ってしまうのは、「輪ゴムの成り立ち」の数行はためになる情報であり、それゆえ流れのなかで一瞬の「溜め」になっていて、この一瞬の「溜め」は、何かを偏愛する者にとって、よりいっそう歓びを際立たせるための、巧みな仕組みなのだ。ああ、面白いなあ!
私はそんなふうに思って読みすすめてしまいましたが、みなさまはいかがでしょうか。このなかで平松さんは、食べ物にはハレとケの顔があると書く。そしてその両方を心ゆくまで味わい尽くす。『鰻にでもする?』の読後は、まさにそれを堪能させてもらった気分だ。ほんとうにご馳走さまでした。
(あさお・はるみん イラストレーター)
『鰻にでもする?』 詳細
平松洋子著
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3