異界へ――小池昌代巫女さん説/間室道子

 のっけからでナンですが、私は「小池昌代巫女さん説」をとなえている。聖と穢れの橋渡しをするものであり、彼女自身が人であって人でないような存在。
 人間を超えたものとして、よく「女は菩薩である」とか「女性は聖母である」とか言われる。どちらも人(特に、男!)をあやしたり癒したり許してくれたりするが、巫女さんは違う。黙ってわれわれの前に立ち、「向こう側」へいざなう。それが喜ばしい世界か地獄の底か、巫女さんにはカンケイない。とにかくあらわれたら最後、彼女はわれわれの運命の手を取り、見知らぬ場所へ連れ去る。
 異界というのは小説だけでなく、ゲームでも描かれている。ていうか、人気ゲームは半数以上が「ここではないどこかへ行く話」ではないか。私はぜんぜんやったことがないのだが、勇敢な少年が魔法の石だの剣だの小動物だのを手にいれ、冒険をするそうだ。ようするに行くのは「選ばれし者」であり、旅の扉を開くのは「価値あるものにふれて」である。
 小池作品では日常を超えた世界に、なんというか、そのへんの人が引きずり込まれる。本書『黒蜜』は、ぷんぷんと人くささも獣くささも匂い立つような『ことば汁』(中央公論新社)に比べると〝異界度〟はおとなしい。はっきり「登場人物が異常な世界へ行き、たぶん二度と戻らない」とわかるのは、一四編中、三つぐらい。きざしも「謎の屋敷に招かれ」とか「友人の遺品を整理していて」というイカニモなものではなく、見えにくい傷のよう。たとえば、「指の皮がむけた」(どのゲームに「勇者にささくれができたので、冒険が始まりました」などというものがあろう!)とか、「卵を割った」「お母さんの裸を見た」「雨の日に一人だけ黒長靴」など、そんなことで人が境を越えるなら、変な言い方だがこの世は異界だらけではないか! といいたくなるお話ぞろい。そう、それは正しい。本書でわれわれが連れて行かれるのは、信じがたい現象が起こったり人が怪物に変身したりするところではなく、日常とうす皮一枚しかちがわない彼方なのだ。これが怖い。世界がものすごく崩壊した! というながめより「世界は同じなのに私はまるで変わってしまい、もう元には戻らない」のほうが、怖いではないか。
 例をあげればそれは「子供が大人になる」という形であらわれる。表題作の主人公は男の子で、子役の人気スターである。父を知らず母を亡くした彼は、芸能事務所の社長夫妻に引き取られて現在八歳。自分の一言で撮影所のADの処遇なんかどうにでもできると思っている。この時点で彼は「大人顔負けの子供」であって大人ではない。彼がそこへ踏み出すのは九歳の女の子によって、である。
 撮影現場に共演者が連れてこられる。少年の方は一発OKの連続だが、素人だというその少女は撮り直しが続く。だが二回目は最初に注意されたことを必ずこなし、三度目にはさらによくなっている。自分で吸収し、考えることが生み出す可能性。豊かさ。それにくらべて一発OKからは何も生まれないのだ。
 撮影終了後、ふたりはあんみつを食べる。少年はこれを食べたことがなく、少女にならって白蜜ではなく複雑なこくのある黒蜜をかけてもらう。初めてなのに、もうとろりとした大人の味。彼女は一足先に帰る。顔合わせの時は見下していてすぐに忘れたので、少年は少女の名前を、役名でしか知らない……。
 子供が大人になる、天才が恋を知る、というのが喜ばしいことなのか、人生を棒に振る堕落の始まりなのか、判断できずに物語は終わる。ただ、本を閉じたあと、自分のまわりがふと変わって見える。本書にあらわれる異世界は、われわれの中に眠っていたものが揺り動かされ、地表に出てきたような、奇妙な愛しさを帯びているのだ。通り過ぎてきた、あるいはこれから行くかもしれない、心ざわめく場所として。
 本文の扉カットを小池さん自身が書いている。どこか怖い魅力があり、異世界へのドアを飾るにふさわしい。
(まむろ・みちこ 書評家)

『黒蜜』 詳細
小池昌代著

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