再読『滞日十年』/戸部良一
戦前の駐日アメリカ大使グルーの日記をあらためて読んだ。前に読んだのは大学時代だから、およそ四十年ぶりである。たまたま廣部泉氏のグルー伝(『グルー――真の日本の友』)も刊行されたばかりだったので、併読してみた。
グルーの日記には、一般に「振り子理論」として知られているものが登場する。日本には国家主義的な過激派とリベラルな穏健派とがあって、満洲事変以降は過激派が勢力を振るっているが、それがやり過ぎれば、やがて振り子が戻るように、穏健派が勢力を盛り返す。これがグルーの「振り子理論」であった。そうした穏健派の潜在的かつ根強い影響力をグルーに説いたのは、彼が最高の紳士と称賛した牧野伸顕であり、その女婿・吉田茂たちであった。リベラルな穏健派の頂点には、平和と国際協調を望む昭和天皇がいる、とグルーは考えた。
グルーは、日米開戦直前まで両国の衝突回避のために奔走したことに示されているように、最後まで穏健派の影響力に望みをつないでいた。その経緯は、日記に詳しく、緊迫感をもって記述されている。ただし、それと同時に、振り子が戻るように穏健派が勢力を取り戻すのではないか、という彼の当初の期待は、一九三二年の着任以後次第にしぼんでいった。グルーは本来的に楽天家であったが、日米関係をどうしても改善できず、そのやるせなさを日記に吐露せざるを得なかった。
大戦中に出版された日記は、オリジナルの厖大な日記のごく一部にすぎない。また、グルーは、日本政府の内部事情を彼に伝えていた穏健派の情報提供者の名前を伏せている。それはグルーの慎重な配慮によるものだったが、近年の研究により、その情報提供者の一人は吉田茂であったことが明らかにされた(例えば、中村政則『象徴天皇制への道――米国大使グルーとその周辺』を参照)。
情報提供者の名前以外にも、グルーがあえて伏せたものがある。それは、対日政策をめぐる本国の国務省との食い違いであった。国務省では、政治問題担当顧問(前極東部長)ホーンベックの影響力が強く、経済制裁で締め上げて屈服させることを対日方針の基本としていたが、グルーは、いたずらに経済制裁を強めることは日本を自暴自棄の「国民的ハラキリ」に追い込むと警告した。
アメリカの国際原則を堅持しつつ、何とか関係改善のきっかけをつかもうとするグルーを、ホーンベックは対日宥和であると批判し、自暴自棄から戦争を始める国など歴史上存在しない、と言い放った。グルーは、夜郎自大で国際原則も国際法も顧みない日本に、両国の関係悪化の主たる原因があるとの見方で一貫していたが、それにしても、国務省の頑なな姿勢にもやるせなさを感じないわけにはゆかなかった。
グルーはアメリカの外交官の専門職化に努力し貢献したと言われる。彼が目指したプロの外交官とは、任国のエリート層に知己を求め、彼らを通して自国の政策や実情を理解してもらい、また任国事情に関する情報を収集すべきものと考えられていたようである。それは、宮廷外交とは言わないまでも、エリート外交と言うべきであった。彼が、穏健派と見なした日本のエリート層との交友を重視したのは、そのためでもあった。
しかし、時代はもはやエリート外交の時代ではなかった。第一次世界大戦後の国民外交の時代は、外交の大衆化の時代でもあったからである。グルーの言う日本の過激派は、そうした外交の大衆化に支えられている側面もあったのではないだろうか。日記の前半部には、外務省の過激派の代表格として白鳥敏夫の名前が再三登場する。私は、白鳥が外交の大衆化の流れに棹さしていたと考えるが(拙著『外務省革新派』を参照されたい)、グルーはこうした人物やグループを、話しても分からない非理性的な相手と見なし、あえて接触を図ろうとはしなかったのだろう。グルーの日記を再読し、自分の研究に引き寄せて、そんなことを考えた。
読み直してみて、翻訳が何とも古風なことに気が付いた。ただし、それがかえって当時の雰囲気をよく伝えているのかもしれない。
(とべ・りょういち 国際日本文化研究センター教授)
『滞日十年 上』 詳細
『滞日十年 下』 詳細
ジョゼフ・C・グルー著 石川欣一訳
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