仏教の原点、阿含経典の意義/呉智英

 このたび「ちくま学芸文庫」に増谷文雄編訳『阿含経典』が全三巻で収録されることになった。元の版は、筑摩書房から全六巻で刊行されたものである(一九七九年に四巻分、一九八七年に二巻分を追刊)。阿含経典を網羅的に、かつ読みやすくまとめたものとしては類例がなく、読者にも好評で版を重ねていたのだが、いつの間にか品切れになっていた。
 私は昨年筑摩書房から『つぎはぎ仏教入門』を刊行した。これは初期仏教(原始仏教、オリジナル・ブッディズム)に焦点を当てて仏教概説を試みたもので、初期仏典である阿含経典からの引用も多い。その際に使ったのがこの全六巻の『阿含経典』であった。しかし、典拠である『阿含経典』が事実上の絶版状態で、私としては残念に思っていた。今回の文庫化で、初期仏教の原点に触れる機会が広がることは喜ばしい限りである。
 ここ数年、社会全体が方向感を喪失しているところへ、昨春の東日本大震災の衝撃が追い討ちをかけた。それもあってか、出版界はちょっとした仏教書ブームである。確かに、これを機に内省的な生き方を求めるのも悪いことではない。仏像の美に伝統を再発見するのもいいだろう。子供のしつけに地獄絵を見せるのも効果的かもしれない。しかし、よく考えてみれば、それらは「習俗仏教」への回帰にすぎない。習俗仏教に本当に価値がないか否かの議論は別途する必要があろう。しかし、この百余年、仏教批判は常に習俗仏教批判であったはずだ。寺檀制、葬式仏教、僧侶の堕落……こうしたものへの批判が、ここへ来て一気にひっくり返されてしまっていいわけがない。
 仏教への関心は、あくまでもその「思想」への関心でなくてはなるまい。教祖釈迦の説いた教えへの共鳴こそが第一だろう。
 その釈迦の思想が、実は各宗派によってないがしろにされてきた。それも百年二百年のことではない。日本では仏教伝来から千五百年の長きに亘ってである。
 釈迦の思想が原形に近いまま保存されている経典は阿含経典である。これが長く顧られることがなかった。明治になって習俗仏教への批判も高まり、欧米での仏教学の興隆も受け、次第に阿含経典の重要性が認識されるようになった。しかし、今なお阿含経典は読まれざる仏教原典である。その証拠に、阿含経典を一句も唱えない阿含宗という新興宗教が存在するほどである。
 阿含経典の中で、私が強く心惹かれるのは梵天勧請品である(文庫版『阿含経典』第二巻所収)。
 釈迦が尼連禅河のほとりの菩提樹の樹下で覚りを得た時のことである。釈迦は「孤坐の思索のなかにおいて、つぎのような思いを起された」。
「わたしが証りえたこの法は、はなはだ深くして、見がたく、悟りがたい。すぐれたる智者のみのよく覚知しうるところである。欲望に躍る人々には、この理りはとうてい見がたい」。それなのに、と、釈迦は言う。「〔わたしが〕苦労してやっと証得したものを、なぜまた人に説かねばならぬのか」。
 驚くべきことに、釈迦は自分が獲得した真理を一人占めしようとするのである。智者ならぬ愚民俗人どもに真理を説いてもしようがない、というので。
 これに危機感を抱いたのが諸神を束ねる梵天神である。このままでは、釈迦の肉体が滅びるとともに真理も滅びてしまう。「生と老とに敗れし人々を憐」むためにこそ、真理を説き給えと「勧請(説得)」する。釈迦はこれに応じ、「哀憐」の気持ちによって真理を説くことを決意するのである。
 私はこの釈迦の内心の葛藤に知識人の原点、思想家の原型を見る。偶像化され神格化された釈迦ではない本来の釈迦が説いたことこそ仏教(仏陀釈迦の教え)ではないか。仏教が歴史の中に立ち上がる瞬間を、私は阿含経典の中に感じ取る。
(くれ・ともふさ 評論家)

『阿含経典1』 詳細
増谷文雄編訳


『阿含経典2』 詳細
増谷文雄編訳


『阿含経典3』 詳細
増谷文雄編訳

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