〈商品空間〉の彼方へ/野尻英一

 いま日本社会の(特にこれから社会を担う若い世代の)文化・精神的状況に対する分析は、東浩紀さん、斎藤環さんらによるポストモダン系日本文化論と、赤木智弘さん、古市憲寿さんらによる希望・幸福系日本社会論に分裂しており、両者をつなぐリンクが存在しない。意想外に響くかもしれないが、マルクスの『資本論』を土台にすれば、両陣営の乖離を埋める理論構築ができると私は直感している。『資本論』は私たちの想像力のモードの変化についての書物であると理解するところから、その作業は始まる。
 私は、もともと哲学の研究者でヘーゲルを専門としているが、その立場からすると、マルクスの『資本論』という書物はさして難しい書物であるとは思われない。明らかにマルクスは、ヘーゲル現象学の手法を援用して、資本主義という社会形式に対する内在的な分析を試みている。
『資本論』の時期のマルクスは、もはやプロレタリア革命や共産主義社会の必然的な到来といった考えは捨て去っている。その代わりに彼は、近代社会の構成が、人間のもつ抽象的な想像力の次元をいかに奪取し、社会的に実在し自己運動する概念形式(=資本)を生み出すのかを考察している。それは、人間の手を離れ自意識を獲得したコンピュータのプログラムのように、自律的な運動性を獲得する。マルクスが「資本の有機的構成の高度化」という概念で解明しようとしたのは、このプロセスである。
 私たちが魔法の壺から呼び出してしまったこの資本という魔神は、もう壺には戻ってくれない。マルクスが『資本論』という書物を通して私たちに伝えたかったことは二つある。①この魔神に仕えるうちに、私たちの存在の様式が変わっていってしまうということ、②それにもかかわらず私たちは、自分たちは根本のところでは変わっておらず、いつでももとの在り方に戻れると思いがちであること、である。
〈商品〉や〈貨幣〉といった社会的交換の形式は、つまり魔神は、私たち人間の想像力が生み出すものだ。しかし今や私たちの意識も、この資本という生きた概念形式の効果によって生み出されている。この自己媒介的な作用はやっかいなもので、一度この構造が成立してしまうと、抜け出すことがきわめて難しい。『資本論』のマルクスは、むしろこの構造の効果を極大化し、突き抜けてしまうしかないと考えていた。
『資本論』から一五〇年、いかなる革命の試みも、革命的思想の営為も、資本主義の自律的な軌道を根本的に変えることはできなかった。端的に言えば、マルクス主義は負けたのだ。徹底的に。だがそのことは、マルクスの理論そのものの敗北を意味しない。だいたい『資本論』は資本主義の体制を一気に覆す方法を教える教科書などではない。私たちの未来はこの〈商品空間〉を突き抜けていったその先にしかないということを、マルクスは言おうとしていた。
 筑摩書房から刊行された『時間・労働・支配』(モイシェ・ポストン著)を、私は監訳者の一人として翻訳したが、ヘーゲルを読んでいる人間を満足させうる水準の『資本論』読解がようやく出てきたと感じた。ポストンのまなざしは、〈商品空間〉を通り抜けた先に向かっている。そのロジックは、〈商品空間〉以前に戻りたいというロマン主義的な想像力ですら、〈商品空間〉の効果である、というかたちで唯物論を徹底している。
 このロジックの先に構成される未来や希望のかたちとはどのようなものか、そのことをいま考えている。
(のじり・えいいち 哲学者)

『時間・労働・支配 ─マルクス理論の新地平』 詳細
モイシェ・ポストン著 , 白井聡監訳 , 野尻 英一監訳

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