唸るほどに面白い/大崎善生
本書は雁金準一という明治、大正囲碁界を生きた一人の囲碁棋士の物語である。雁金は団鬼六氏好みのアウトローでは決してない。むしろ親思いで人にも常に思いやりの心を示す好青年であり、自分の志を曲げることなくまっすぐな清々とした人生を送った。
書き出しの部分から私は様々な興味をそそられて読み進めていった。過去に鬼六は何冊かの評伝と小説の中間のような人物伝を書いているが、その中には絶妙のさじ加減でフィクションを織り混ぜていることがある。聞いてもいない、また聞けるはずもない二人の人間の会話が、まるでマイクで録音していたかのようにスラスラと出てくることがある。私は本人に直接確かめたことがあるが、「それはそっちのほうが面白いからやろ。そんなこといちいち気にするのはアホや」と言われてしまった。つまり鬼六にとってはフィクションもノンフィクションもなく、面白い物語だけが存在するのである。
しかし本書を読み進めていくうちに、私は身が引き締まる思いがした。そこにある物語が鬼六のものとは思えない緻密で冷静な筆致で書き進められているからである。こんなに静かで透明感のある鬼六の文章に接したのははじめてのことで、まさに目から鱗が落ちるような思いであった。と、同時に団鬼六という稀代のSM作家が内包していた才能の幅広さ、技術の確かさにいまさらに驚かされるのである。
物語は雁金準一という青年棋士を軸に様々な人間ドラマを積み重ねて展開されていく。描かれる伊藤博文の人物像のリアリティーは圧倒的であり、伊藤への尊敬の念を書くことで雁金の純粋さや囲碁への思いを浮き彫りにさせていく鬼六の手腕は、見事というほかない。挿入される雁金のあまりにもはかない初恋の話は、一輪の花が咲いたように可憐で美しい。
そしてなんといっても引き込まれてしまうのは本因坊をめぐる骨肉の争いだ。方円社という勢いのある新興勢力と、江戸時代から続く本因坊という名門との主導権争い。本因坊を誰が継ぐかという坊門の争いに、雁金が巻き込まれ、本因坊秀栄未亡人の熱烈な支持を受けながらも、ライバルたちの権謀術数の前に敗れていく姿は何ともドラマチックとしかいいようがない。
王将の坂田三吉や古くは天野宗歩をはじめ木村義雄、升田幸三、大山康晴と、棋士の物語となるとどういうわけか囲碁界よりも将棋界のほうに注目が集まる傾向があった。将棋界にはリアルでぎすぎすとした人間ドラマがあり、囲碁界はどちらかというと坊さん的な恬淡とした世界をイメージしがちであった。しかし囲碁界にも本因坊争いのような血なまぐさい人間のドラマがあったということに驚き、そのことに注目し発掘してみせた鬼六の着眼の鋭さには感心するほかない。
私は『赦す人』(新潮社)という評伝の取材で、鬼六の最晩年の三年間を親密に過ごさせていただいた。その間に何度となくこの未完の雁金伝のことをぼやいていた。「九割方できあがっているんやけど、わざと書かないでおるんや」と言っていることもあった。資料なんて見て書いたことがないと豪語する鬼六だったが、この雁金伝に関しては高木祥一九段から送られてきた多くの資料に埋もれるように書いていたそうだ。鬼六にしては考えられないほど真剣に真直ぐに題材に取り組み、その苦しさを何度となく嘆いていた。ときには人工透析をキャンセルしてまで執筆に取り組んだこともあった。文字通り命と引き換えだ。しかし癌を発症してからの体力の消耗は激しく、遂に未完のまま文字通りの絶筆となってしまった。
その物語を結末させたのは高木九段の手による。しかし最後のこの結末が、より物語を静かに終わらせることと客観性を持たせることに成功しているように思うのである。
本書は団鬼六の間違いない新しい可能性を見せてくれている。鬼六ファンにも囲碁ファンにもそしてノンフィクションファンにも広く読まれて欲しい、本当に唸るほどに面白い一冊である。
(おおさき・よしお 作家)
『落日の譜 雁金準一物語』 詳細
団鬼六著
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