片野訳『ルバイヤット』一瞥/沓掛良彦

 残念ながら、ペルシア古典詩はわが国ではそう広く知られ読まれているとは思えない。ゲーテが自分にもまさる偉大な詩人として称賛を惜しまなかった大詩人ハーフェズやサアディーの詩にしても、原詩からの立派な翻訳があるのだが、邦訳によって、これに親しんでいる読者はごく限られるであろう。
 そんな中で、ヨーロッパ近代詩の翻訳に劣らず、いや、ことによったらそれにも増して、明治以来わが国の読者にも親しまれ愛読、愛唱されているペルシア古典詩がある。言うまでもなくオマル・ハイヤームの『ルバイヤート』である。明治時代に詩人蒲原有明が、世界中にハイヤームの詩の流行をもたらしたフィッツジェラルドの英訳からの抄訳を世に問うて、その魅力をわが国の読者に伝えて以来、さまざまな人々の手で、数多くの邦訳がなされ、多くの読者の心を惹きつけてきた。これまでになされた邦訳の多くは、フィッツジェラルドの自由奔放な英訳からのものであったが、それらの中で『ルバイヤート』の翻訳としてほとんど不動の位置を占めているのは、小川亮作によるペルシア語原典からの翻訳、『ルバイヤート』(岩波文庫)であろうと思われる。原詩に可能なかぎり忠実であるばかりか、原詩のひびき、音韻にまで細心の注意をはらった上で、ハイヤームの詩風を簡潔で切れ味よく、しかも陰影に富むみごとな口語詩に仕立て上げた訳者の力量には、ただ感嘆のほかない。詩を愛し、また酒を愛する男の一人として、私もまたこの小川訳『ルバイヤート』を、それこそ韋編(いへん)三度(みたび)絶(た)つほどにも愛読してきた。ついには病昂じてハイヤームを原詩で読みたい一心で、若い頃にペルシア語習得を企てたが、これはあえなく挫折してしまった。しかしその後もハイヤームへの関心やみがたく、他にもいくつかの邦訳、英訳、仏訳などにも親しみ、竹友藻風、矢野峰人、森亮などの訳詩にも魅了されてきたし、原詩からの翻訳では、陳舜臣の若年の訳業『ルバイヤート』に清新な魅力を感じて、これも愛読している。この詩書は、「横肘の酒人」たるわが枕頭の書にほかならない。
 しかしそれでいながら、古書探索に格別に熱心でもない私は、大正三年に刊行されたという片野脱牛(文吉)訳の『ルバイヤット』には触れる機会がなかった。ペルシア古典詩の専門家である佐々木あや乃氏に教えられて、その存在を知ってはいたが、あえてそれを求むることは怠っていたのである。今回はじめてそれを読む機会を得て、正直に言って私は一驚した。片野訳によって、これまでの翻訳で接していたのとは、かなり異なるハイヤーム像がそこから浮かび上がってきたからである。片野訳は、ジャスティン・マッカーシーによる原典に忠実な散文訳(英訳)を丹念に文語体の散文に翻訳したものだが、その文体は荘重瑰麗(そうちょうかいれい)、蒼古たるもので、あたかも文語訳聖書を読んでいるがごとき趣である。事実、この翻訳の文体には、「明治文学最大の傑作」と言われる文語訳聖書の影響が色濃く影を落としているのが見られる。底本としたマッカーシーの英訳自体が散文訳であって、ハイヤームの詩風よりもむしろその思想を重視した翻訳であることも大きく作用しているものと思われるが、片野訳もまた『ルバイヤート』の詩としての美しさ、流麗さよりも、思想家ハイヤームの面影を伝えることに意を用いているようである。そしてそのかぎりでは、この訳詩は十分に成功を収めていると言えるだろう。
 宇宙的な広がりをもつ虚無思想を、酒を称え、現世での快楽を勧める平易で軽やかな詩句に封じたのがこの詩人であったが、彼はまた科学者・数学者であり、哲学者でもあった。実に四六六篇という数多くのルバイー(四行詩)を収めたこの訳詩集からは、思想家・哲学者としてのハイヤームの貌(かお)がまず浮かんでくる。最後の一篇、「人生の此(この)家に於て、哲学者よ、赤き酒を飲め、今後風の運び去るべき汝の塵の各分子が、酒に浸されて酒店(しゆてん)の入口に落ち得(う)るやうに。」が、それを如実に示していよう。
(くつかけ・よしひこ 狂詩・戯文作者)

『ルバイヤット』 
オマル・ハイヤーム ジャスティン・マッカーシー英訳 片野文吉訳
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