精神の無限への誘惑―ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』/塚本昌則

 かつてロラン・バルトは、ボードレールの『人工楽園』とヴァレリーの「テスト氏との一夜」が「陶酔の記述」を扱った同じ本だと指摘した(『〈中性〉について』)。バルトの指摘は、ヴァレリーのもうひとつの初期作品である「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」にもよく当てはまる。一八九五年、ヴァレリーが二十三歳の時に書いたこのテクストは、意識の高揚した「陶酔」状態を全編にわたって語っているのである。科学であれ芸術であれ、どのような創造活動でも意識的な方法に従って実現できる精神──ヴァレリーがレオナルドのうちに見ていたそんな境地が実現すれば、陶酔をもたらさずにはいられないだろう。
 陶酔という主題は、『人工楽園』が示しているように、苦痛と切り離すことができない。日常から切り離され、地獄に突き落とされる瞬間があればこそ、陶酔は闇からの解放としての意味をもつ。実際、ヴァレリーは、一八九二年、「ジェノヴァの夜」と後に呼ばれる日から、自分を死んだものと見なしていた。そのまま詩作を続けてもマラルメやランボーのようにはなれないと感じて詩人になることを諦め、うまく行かない恋愛生活も断ちきり、自分をひたすら何かが生起する場所として見る、そんな決意をした一夜である。自我からもうひとつ別の自我が分離する──そんな死と再生の物語を、ヴァレリーは生涯をかけて追求した。自分をまるで他人のように見つめることが、ヴァレリーにとって書くという行為の核心をなしているのである。
 その探究は、一八九四年、まず『カイエ』という、精神のメカニズムを抽象的に分析する覚書として開始される。出会い、別れ、社会生活での成功、失敗などからなる現実の生活を、自分とは無関係なものとみなすことから始まった研究は、しかし抽象的な研究にはとどまらなかった。九五年の「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」、九六年の「テスト氏との一夜」によって、実在の人物と虚構の人物という厚みを獲得するのである。そのなかでもヴァレリーのレオナルド論は、絵画にとどまらず、建築、人体解剖、物理学、天文学など、さまざまな分野におよぶ創造の方法を完璧に意識していた人間という、精神の極限の姿を追求したものである。
 通常、ある歴史的人物について語ろうとする人は、その人物の残したものを調べ、年代記的事実を再構成しようとするだろう。ヴァレリーは、そのような考証学の知識に基づく人間記述には、価値がないと考えていた。現実の生活に現れた自我ではなく、その人物が何ごとかをなしたとき、その方法を意識していた自我こそが重要だったのである。そのような考え方の背景には、フランス象徴主義の風土がある。十九世紀末の若者たちは、人間に対する認識が、現実社会に測深器をおろすことではなく、自分自身の深部に降りていき、人物の外面を見てもまったくわからない、制作する自我の根源的な力を見出すことによってこそ深めることができると考えていた。プルースト(ヴァレリーと同じ一八七一年生まれ)のように、その風土とは無関係に見える小説家でさえ、作品を生みだす自我は、さまざまな習慣や交際などに現れた外面的自我とは別物であることを強調している。ここには一八八〇年代まで優勢だったレアリズムへの嫌悪を見てとることができる。日常の中に現れる個性を、多彩に、詳細に描くことではなく、創造的な活動の中にしか姿を現さない自我の姿を、できる限り正確に捉えることのほうが重視されたのである。
 考えてみれば、文学テクストはつねに日常とは別の次元を切り拓こうとしてきた。プルーストの深い自我、ヴァレリーの方法を意識する自我もまた、日常を超える世界に到達するための仕掛けである。「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」は、創造的な活動にどこまで人間が意識的になれるかを検討することで、精神の無限の可能性を探究する作品なのである。

『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』詳細
ポール・ヴァレリー著 塚本昌則訳

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