忠孝残リテ、経済滅ブ/脇田 成
一八九〇年のフランス流民法導入時に、『民法出デテ、忠孝滅ブ』といって帝大教授穂積八束が反対したことはよく知られている。主君に忠節を尽くすこと、親に孝行を尽くすこと、つまり周りの目上の人に尽くすことが、儒教を元にした日本の伝統社会の根幹であり、性急な法律導入はそれを揺るがすというのだ。この忠孝という言い方は古めかしいが、周りの人に尽くすという形で今も生きているのではないか。江戸期の演劇である歌舞伎が今なお隆盛を保っている理由は、この人に尽くすという行動を正面から描いているからだ。忠臣蔵の大星由良之助が、菅原伝授手習鑑の松王丸が、家族を犠牲にして、主君に忠を尽くしていく。歌舞伎ドラマでは「忠」と「孝」という二つの上下関係の不一致に引き裂かれた枷、ダブルバインドのもとで、いわば中間管理職の主人公が悩み、「どうしよう、どうしよう」と言いながら切腹して果てていく。
停滞気味な日本経済の背景には、実はこの「忠孝」の構造があり、これが伝統的経済学の想定外の事態をもたらしている。その事態とは過剰な企業貯蓄である。通常、経済というものは家計の貯蓄を企業が社債や株式といった形で直接借りるか、銀行経由で間接的に借りるかして、投資を行い拡大するものだ。ところが日本経済の場合、一九九八年の金融危機以降、そうなっていない。日本の最大の資金黒字主体は企業部門なのである。
企業が過剰な貯蓄をするとどうなるか。まず自己資本が増加し、資本収益率は低まる。貯蓄過剰なのだから、金利を下げて資金を借りやすくする金融政策は焼け石に水である。マクロ経済が停滞してしまうから、政府は支出を拡大しなくてはならない。銀行には資金が貯まってしまうから、半沢直樹がいくら力んでも、銀行は国債を購入しなくてはならない。これらが財政危機の背景であり、マクロ経済政策行き詰まりの理由である。
しかし経済政策の根本に帰れば策はある。マクロ経済政策の基本は貯蓄主体に支出を促すことだ。政府が企業に異例の賃上げを要請する理由も、資金を放出してくれということだ。そして政府が前に出る背景には、「合成の誤謬」がある。個別企業にとってみれば、一社だけが賃上げをしても得るものは少ない。企業経営が不安定となっていき、経営者ばかりか、内部で出世するしかない幹部にとっても得策でない。しかしマクロ経済全体ではどうだろうか。家計の所得が上昇すれば、消費支出は増大し、必ず内需は盛り上がる。つまり個別の細かな行動の総和が大きなマクロ的なうねりをもたらすのである。
冒頭の忠孝でいえば、ここまでは組織に「忠」の部分である。家庭内の「孝」の部分はどうだろうか。
内需不振は人口減少に帰因する部分が大きい。産業を輸出主導型と内需主導型に分ければ、大きく生産が伸びるのは輸出型だが、雇用吸収力の強い産業は内需型だ。そしてこの内需型産業、たとえば地域の鉄道やバス、スーパーマーケットなど、その需要は人口依存、いわば人々の「頭数」に依存する。つまり大多数の人々の雇用も需要も、内需と人口に依存している。人口減少が始まった日本では、内需型産業はジリ貧だ。過剰な企業貯蓄のきっかけは金融危機だが、背景には人口減少があるのである。一方で、非正規化の波は女性の正社員を総数で減らし、未婚・少子・非正規を大幅に増やしてしまった。未婚の背景には伝統的な家庭観のもと、女性の高い理想がある。さらに言えば、地方の政治家が伝統的家庭観に固執して、少子化対策はなかなか実行されない。以上が「孝」の部分である。つまり大きく見れば、家庭を犠牲にして、企業の存続を図っている。
冒頭に忠と孝に引き裂かれた歌舞伎の主人公は切腹して果てていく、と述べた。日本経済においても、少子化を放置し企業貯蓄増大を許容するならば、それは滅びの美学に酔った自殺行為と言わざるを得ないのである。
(わきた・しげる 経済学者)
脇田成著
『賃上げはなぜ必要か――日本経済の誤謬』詳細
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