「歴史家であったゆえに……」―網野善彦が見た群島/今福龍太
「陸は分断し、海は接続する」。アメリカ大陸(アメリカス)に流れた、先住民文化から征服・植民時代を経て現代までの長大な時間を念頭に、こう私が書いたのは二○年以上前のことだった。広大な大陸を南北にもつアメリカスにとって、そこを陸伝いに横断する試みがいかに苦難多きものであったかは歴史が証明している。一方、カリブ海やパナマ地峡、アマゾンの大河周辺の交通や移動をめぐる民族誌を繙けばわかるように、海や湖・川を媒介にした人間の移動は、はるかに自在かつ継続的に行われてきた。民族文化の存在を国家の統合的な力学のなかで排他的にとらえようとするとき、私たちは陸地のもつ分断的性格に立脚してしまう。だが、国家の周縁部でダイナミックに生成するクレオール的混血文化の方に着目すれば、陸ではなく海というテリトリーのもつ日常的接続性こそが文化の本質的な動因であったことが深く了解されるのである。
拙著『クレオール主義』(青土社、一九九一。ちくま学芸文庫、二○○三)の底流に流れていたこのヴィジョンは、当時かなり孤立したものだった。だが、網野善彦氏による画期的な中世史研究の仕事が、学問分野や地域的な違いを超えて、私の直観に向けて力強いエールを送ってくれているように感じられた。非農業民の重要性から列島社会の成り立ちを再考した七○~八○年代の先駆的な仕事を経て、明確に海民の存在を基盤に据えて海から見た日本史像の書き換えにとりくんだ九○年代の著作群。丹念な文献的実証に根ざしつつ、大胆な文化地政学的直観のヴィジョンをそこに合体させた「批判の学」としての網野史学は、それが描き出す未知の社会像とともに、学問や思想を成立させてきた大陸的制度そのものを問い直そうとする情熱においてたえず私を鼓舞するものだった。
「ナショナリズムをこえ、海を視野に入れて、これから歴史を考えなくてはなりません」(『忘れられた日本人を読む』岩波書店、二○○三)──温和な言い方ながら、この一節のなかには歴史家=網野善彦の思想の核心と学問的矜持とが宣言されている。ナショナリスティックに想像されてきた「日本」という擬制的な観念を棄て、「列島」という語によって日本なるものの海洋的・群島的な接続性を彼は喚起した。領土を自明の国家的統合体とみなしてこれを無自覚に「西日本」と「東日本」とに分類する因習にも異を唱え、海を媒介に、列島西部と朝鮮半島南部を、列島東部と朝鮮半島北部・東北アジアをそれぞれひとまとまりの文化複合体としてとらえ、それらのせめぎ合いとして列島周辺の歴史を理解する脱国境的なヴィジョンをいち早く示したのも彼だった。歴史を海から考えるという表現には、歴史を縛ってきた大陸的と呼ぶべき制度的思考の慣習からの決別の意志が、確信をもって語られていたのである。
『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫、二○○五)では「[国家は]強烈な意志で陸上の道に基本をおいた交通体系をつくるのです」とも書いている。これは、国家が、海上交通や河川交通が列島社会の根幹にあった事実を意図的に無視する機構であることを批判する、力強い檄文でもある。その無視の理由として彼は、日本が小さいながら「帝国」を指向していたからだ、と容赦なく断ずる。「日本国」という恣意的な領域を画定しようとする帝国的欲望のなかで、四方に勢力を広げてゆく陸上の道だけが意味を与えられ、海は単なる国境の彼方の空白として排除されていったのである。
網野の思想を敷延すれば、「日本」は、群島でありながら、封建主義時代を経て近代の国家形成期に大陸原理を社会の基本原理として採用するという錯誤をおかした。それによって思想的にも大陸の無意識が注入されたため、近代の学問自体が大陸原理のイデオロギーを内在させることになった。それを解放するのが、海や群島からの歴史の書き換えである。抽象的な権力の容器として存在を主張する「大陸」から、具体の生命の連鎖への信頼にねざして関係性を生きようとする「群島」へ。
柳田国男は『海南小記』の自序で、島の視点から隔てられていた自分を反省とともにこう述懐していた。「ただ自分は旅人であったゆえに、常に一箇の島の立場からは、この群島の生活を観なかった」のである、と。この「旅人」に「歴史家」と代入してみれば、網野の思想的自己変革の出発点が明らかになるだろう。彼は、「群島の生活を観」ることのできる、稀有な眼差しをもった真の歴史家へと転生しようとしたのである。
(いまふく・りゅうた 文化人類学者)
網野善彦著
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