アダルト漢詩入門/辛酸なめ子
漢文は、レ点とか、一、二点が出てきた瞬間にもう理解することをあきらめ、高校時代は授業を放棄して寝ていたのでいつも赤点でした。杜甫、項羽といった名前は記憶の底に沈んでいるけれど、どんな詩だったか思い出せない、でもきっと偉大な人なんでしょう……といったレベルで不勉強の極みの私が、大人になってこの『気ままに漢詩キブン』を拝読したら、想定外のおもしろさと、人間味あふれる漢詩に心を奪われました。著者のマニアックな知識と、ユルくてかわいいキャラクター、そして超訳的文章が、ど素人の読者を中国数千年のめくるめく文学世界に誘ってくれます。
例えば「沢陂」という漢詩。この読むことすら不可能な題名の作品が、まさか片思い中の男子の詩だったとは。「涕泗滂沱」が「何も手につかなくて/心もやもや」、「輾転伏枕」が「毎夜枕かかえて/寝返りうつばかり」などと訳されると、近寄りがたい漢詩に親近感、というか硬い四文字熟語で狂おしい恋心を表現する姿に萌えを感じます。項羽が恋人に贈った詩も収録されています。戦いで追い詰められ四面楚歌状態になった項羽は「虞や虞/お前をどうしてやればいいのだ」と、切ない思いを詩に託します。日本の武将で、恋人や妻へ詩を書いたケースをあまり聞いたことありませんが、古代中国の武将は意外とロマンティックです。杜甫も奥さんを恋い慕う「月夜」という詩を書いています。「ふたり/窓辺によりそい/月光の下、涙が乾く日は訪れるのだろうか」と、叙情的で昭和の歌謡曲のよう。読むうちに、中国男子へのイメージが変わっていきます。いっぽう中国女子はプライドが高いようです。「将仲子」では、「お願いよ、あなた/うちの里に来ないで/わたしが植えた杞の枝を折らないで」「うちの垣根を越えないで」「噂になるのは困るの」と拒否しまくっています。でもあまりにも具体的に○○するな、と言っているので、むしろ挑発しているのかもしれません。「白頭吟」は、奥さまが美男で有名文筆家の夫が第二夫人を持とうとした時に贈った詩だそうで、静かな怒りが行間から漂います。「わたくしがけがれなき純白なのは/山上の雪のごとく」といきなり自画自賛で始まり、「淒淒復淒淒」(なんて悲しく寂しいことでしょう)と、同じ文字を繰り返して言霊力を強めています。迫力みなぎる漢詩に夫は萎縮。呪いをかけられた気がして縮み上がりそうです。「竹の釣竿はなんとしなやかなことでしょう」という一節も意味深です。釣竿は男性器の比喩だとすると、夫の下半身に対する皮肉でしょうか。中国女性を怒らせたら怖いです。
中国男子はお酒に酔って現実逃避しがちです。この本には、飲酒を美化する酒至上主義の詩も多く収録されています。「卯時酒」は「仏法では醍醐を讃え/仙方では甘露を誇る」と格調高いフレーズで始まります。が、「しかしまだまだ/朝酒にはかなわない」と、酒の素晴らしさについて滔々と語りだします。「すべてから解放されて/世界の始まりに返ったかと思うほど」というのは言いすぎな気がしますが……。最後は「こんな境地に至ったからには/全部ぶっこわしてやるか」と妙に気が大きくなっていて、この詩人、絶対酔っぱらって書いています。「連雨独飲」という詩も、「生あるものは必ず死ぬ/この真理は変わらない」と厳かな調子で始まりますが、「長老が酒を贈ってくれた」というあたりから様子がおかしくなり、「杯を重ねれば意識もうっとり」「一瞬間に宇宙をかけめぐった心地」と、いつの間にか酩酊状態です。そして最後は「体は衰えてしまったけれど/心意気さえあればいい」と、根拠のないポジティブ思考。お酒のパワーは計り知れないです。こんな調子で、「止酒」では「晩酌やめたら安眠できない/朝酒やめたら起きられない」「飲まねば血のめぐりが悪くなる」と、禁酒を決意しながらも止められる気配がなかったり、「擬古」という李白作の詩も、酒を飲んで踊って現在が楽しければいい、という内容で、享楽的に人生をエンジョイ。驚いたのが、政治家で詩人の蘇軾の「食茘枝」という作品。流罪で南国に送られても「ライチは食べ放題/このまま永住しちゃおうか」と、全くこたえていません。また、左遷先でも「食猪肉」という題名で、豚の名産地に飛ばされた縁で、豚肉を弱火で煮込むとおいしい、という詩をお気楽に綴っています。
漢詩からにじみでる中国人の底力。世界中に根強くチャイナタウンがある理由がなんとなくわかりました。そして日本の男子に不足な部分を彼らは持っているようです。恋の情熱、根拠のない自信、気楽なノリ、etc……。お酒に依存しがちなところはあまり真似してほしくないですが、読むと中国人のあふれるエネルギーを言霊から吸収できて元気になれる本です。
(しんさん・なめこ エッセイスト)
足立幸代編著 三上英司監修
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