云っていいんだ/穂村 弘

 中学生くらいの頃まではぐいぐいと本が読めた。恋愛も仕事もしたことがなかった私の中には、そうした現実体験を通して作り上げた世界像が存在しなかった。だから、何を読んでも、そんなもんか、と思えたのだ。小説に描かれた恋愛も殺人もタイムトラベルも、未知という点では同じだった。もともと自分が空っぽなんだから、なんだって入る。
 ところが、大人になるにつれて、だんだん本が読めなくなった。読んでもすんなりと受け取ることができない。自分の体験や感覚に照らしてズレを感じると、いちいち立ち止まってその理由を考えてしまうのだ。時代や国が違うせいかなあ、とか。
 相手が文学史上の名作ということになると、おかしいのはこっちの方か、と不安になる。その結果、そっちにはそっちの世界があるだろう、でも、僕には僕の世界があるんだよ、と敬遠してしまう。感想一つ云うにしても、世界像を摺り合わせた上でメタ的に「いいこと」を云わなきゃいけないような気がして腰が退けるのだ。名作には若いうちに触れておくべきで、歳をとってから読むのは逆に厳しい、と感じていた。
 本書は、そんな私に子供の頃の読書感覚を蘇らせてくれた。だって、「まるでダメ男じゃん!」って、これは子供でも云える感想だ。著者の中には、ここを出発点として積み上げられた沢山の知識や鍛えられた感覚があるだろう。それらを総動員して名作を読みながら、しかし、真っ先に示されるコメントは「まるでダメ男じゃん!」なのだ。だからこそ、私の中の子供が励まされる。あ、それ、云っていいんだ、と。この調子で次々に繰り出される感想の言葉は、名作を前につい身構えてしまう私のような読者に勇気を与えてくれる。
 本書の全体を通じて引用箇所の選び方とコメントの付け方、ボケとツッコミとでもいうのか、その呼吸が素晴らしい。

〈赤シャツは気味の悪るい様に優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校(筆者註・坊っちゃんが出た学校)でさえおれ位な声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない〉
 声質と学歴に何の関係がございましょうか。
 赤シャツに誘われて海釣りに出た時、魚を捕まえてぬるぬるしてしまった手を海水で洗い、鼻の先にあてがった時の感想も変わっています。
〈まだ腥臭い。もう懲り懲りだ、何が釣れたって魚は握りたくない。魚も握られたくなかろう〉
 いや、たしかに魚も握られたくはないでしょうよ。でも、ね(笑)。
(「子供っぽいジコチュー型のダメ男」 夏目漱石『坊っちゃん』)

 サイテー。サイテーにして陰惨。なのに、にもかかわらず、読んでいて笑えるのが西村文学の持ち味なんです。〈黙れ、経血!〉、こんなキラーフレーズを賢太以外の誰が思いつけるというのでしょう。いいや、おりますまい。
(「借金、暴言、逆ギレ、DV――オールラウンド型の究極のダメ男」 西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』)

 簡単そうに見えるけど、普通はできないと思う。どんなに知識があっても、感覚が鋭くても、それだけでは駄目だ。その上で本当に素直な感想を投げ込もうとする時、マウンドからはストライクゾーンが実に狭く見える。「いいこと」を云ってよく思われたい、という邪念があったら、もうほとんど投げる場所は見つからない。このゾーンに球を投げ込むには、対象への愛と無私性が不可欠だと思う。
(ほむら・ひろし 歌人)

豊﨑由美著
『まるでダメ男じゃん! ――「トホホ男子」で読む、百年ちょっとの名作23選』詳細



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