布施由紀子/ヒトラーとスターリンのはざまで ──大量殺人政策が奪った一四〇〇万人の命

 二〇世紀の半ば、人類史上最大の集団暴力が、ポーランドからウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部にまたがる広大な地域を襲った。スターリンとヒトラーが同時に政権を握っていた一九三三年から四五年までの一二年間、この地で独ソ両国の大量殺人政策が重複して進められたのだ。スターリンとヒトラーは自分の思い描く国造りのため、邪魔者を排除しようとして、この地域に住むおびただしい数の民間人を殺害した。
 東欧史を専門とするイェール大学のティモシー・スナイダー教授はこの事実に着目し、この地域を“流血地帯(ブラッドランド)”と名付けて調査に乗り出した。数年がかりで東欧諸国の公文書館をまわって膨大な資料にあたり、国境で分断されてきた“地域”としての歴史を掘り起こしたのだ。そして、独ソの政策によってこの地で殺害された民間人、戦争捕虜の総数が一四〇〇万人以上にのぼることを突きとめた。
 スターリンと言えば大テロル、ヒトラーと言えばアウシュヴィッツを連想するが、これらは単なる象徴であり、彼らが犯した大罪のほんの一部にすぎない。スナイダー教授は本書『ブラッドランド』のなかで、はるかに規模の大きな残虐行為のひとつひとつを詳述し、凄惨きわまる全体像を描き出した。
 率直に言って、読むのはつらい。人はこうも残忍に、利己的になりうるのか。こんな理不尽な生があってよいものか。ここで数万、あそこで数十万と、信じがたい犠牲者数が次々に示されて息苦しくなるが、加害の歴史を持つ国に生まれた者としては、目をそむけるわけにいかない。真実を追い求める著者の強い信念が、直視せよと迫ってくるのだ。そこには静かな怒りも感じられる。過去との向き合い方を語る最終章は圧巻だ。
 本書が二〇一〇年にアメリカで刊行されると、新たな観点からヨーロッパ史を語った試みとしてたちまち注目を集め、各紙誌がこぞって書評欄で取り上げた。なかでもエコノミスト誌は、「みごとなまでに説明と記録に徹し、公正に、しかも思いやりをもって誰に何が起きたのかを伝えている」と高く評価した。本書は三〇カ国で翻訳出版され、すぐれたノンフィクション作品に贈られるラルフ・ワルド・エマーソン賞、ヨーロッパ全土の――とりわけ中欧・東欧との――和解に貢献した書籍に授与されるヨーロッパ理解ライプツィヒ図書賞、ハンナ・アーレント政治思想賞など、権威ある一二の賞を受賞した。
 ティモシー・スナイダー教授は一九六九年生まれ。イギリスのオックスフォード大学で博士号を取得し、長年、ヨーロッパ諸国で研究活動に従事した経歴を持つ。語学に堪能で、ヨーロッパの言語のうち五カ国語を話し、一〇カ国語を読むことができるそうだ。本業のほか、エッセーや評論の執筆に、講演にと忙しい日々を送っているようだが、ここ一年ほどは、ウクライナ問題について発言を求められる機会が多いらしい。
 今年六月には自由欧州放送のインタビューでロシアとウクライナの将来に言及し、「わたしはロシアがみずから選んで孤立していることを憂慮しています」と語った。「自分たちはつねに──一〇〇〇年にもわたり──世界中の敵対行動の標的になってきた、というような歴史認識を持っていたら、他国と協力関係を築くのはむずかしいでしょう……ロシアは逃げ場がなくなるような状況を自分で作り出している。長期的に見れば、ウクライナよりもロシアのほうが心配です」
 二〇一四年三月のロシアによるクリミア併合以来、ウクライナ東部では親ロシア派武装勢力と政府軍との戦闘が続き、子供をふくむ多くの民間人が犠牲になっている。ポーランドもバルト三国も警戒を強めていると聞く。これだけの歴史を背負った人々の胸中には、わたしたち日本人にはうかがい知れない危機感と覚悟があるのだろう。穏やかな日々の訪れを願わずにはいられない。

(ふせ・ゆきこ 翻訳家)

ブラッドランド(上・下)
──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実
ティモシー・スナイダー著/布施由紀子訳
上2800円+税 下3000円+税

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