松田哲夫/赤瀬川原平の偶然日記


 赤瀬川原平が亡くなって、早くも一年が過ぎた。生前、千円札事件、「櫻画報」、芥川賞、トマソン、老人力と、折々にメディアを賑わせた人だったが、没後にも思いがけない反響を巻き起こした。彼が亡くなった二日後から、千葉を皮切りに大分、広島と、半年以上にわたって大回顧展「赤瀬川原平の芸術原論」が開催されるという偶然もあり、新聞、雑誌での追悼、回顧、検証、特集などが相次いだ。主要新聞は五、六回、角度を変えて記事や寄稿文を載せた。追悼記事を掲載した雑誌は、週刊誌、文芸誌、小説誌、美術誌、漫画誌、カメラ誌、PR誌、老人誌、健康誌、タウン誌など二十誌近くにまで及び、「芸術新潮」では岡本太郎以来の緊急特集を組んだ。
 スーパースターは別にして、これだけ取り上げられ、回顧され、検証される人はめったにいない。さぞかし、本人もあの世で驚いていることだろう。多くの人びとにとっては、多面体とも評される彼のさまざまな表現や作品のすべてを知る機会は少なかった。ところが、本人が亡くなり大回顧展が開催されることで、この稀代の表現者の全体像が俯瞰できるようになった。それが没後の反響に繋がっていることは確かだろう。
 赤瀬川への関心が高まるなか、彼の表現、思索の源泉とも言うべき本『世の中は偶然に満ちている』を刊行することになった。彼の没後、発見された三十数年間の手帖、日記には偶然の出来事や夢の記録などが書かれていた。それらをまとめた「偶然日記」、それに、偶然をテーマに書かれた小説やエッセイを収録した一冊である。
 そもそも赤瀬川は、観察する人だった。人並み外れた眼玉の持ち主で、何よりも見ることが好きだった。目に入るものなら、古今東西の美術品から町中にある不可思議な建造物まで、いつもじっくり眺め、心ゆくまで鑑賞し、カメラを向けていた。
 さらに、好奇心旺盛な彼は、目に見えているものに限らず、「貧乏性」「優柔不断」といった、日常生活で経験する現象や心理にも注目し、観察と考察を重ねていった。
 そういう彼が、後半生において深い関心を抱き続けていたテーマの一つが偶然だった。偶然と言われても、捉えどころがないと思われるかもしれない。彼の文章をちょっと覗いてみよう。
「偶然というものには恐れ入る。ある似たような二つの出来事が、たまたま同じ時に重なったりする。そこに何の意味もないし関係もないのだけど、何かキラッと光るものを感じてしまう。(……)/ふつうの生活でも偶然はピカッ、ピカッと光っているが、人が死んだときなどにはそれがとくに多いようだ」
 宇宙の原理と人間の日常生活がシンクロする、そんなイメージを喚起させてくれる。
「この世の中は偶然に満ちている。/この世の始まりのビッグバンにしても、偶然から始まったものらしい。偶然から偶然が増殖して、途中から人類が加わった」
 偶然とは、宇宙を理解するための重要なキーワードなのだ。
「つまり人間は常に人間の都合のいい思考世界をつくろうとしている。だから人間の秩序を外れる現象を偶然と定義づけて、自分たちの反偶然の世界を固めている。しかし自然には偶然が満ちている。その自然界と人間界の境界を漏れる現象の一滴一滴に、人間の感受性がほのかに震えて、神秘や運命をそこにふくらませていく」
 こうして赤瀬川は、三十数年の間、身の回りに起こった偶然を記録していった。この日記には、偶然と同じく、人間が個人の意志でコントロールできない夢の記録も併記されている。彼自身は、この記録の先に何を考えていたのだろうか。それを想像する楽しみが読者には残されている。
 ところで、この日記を書いていたのは、芥川賞受賞から晩年までだった。宮武外骨、路上観察、ライカ同盟、中古カメラ、日本美術応援団、老人力など多方面で活躍しているときなので、読んでいると折々の姿が目に見えてくるようだ。そういう意味では、これは桁外れの表現者のドキュメントであり、創造の秘密を感じ取ることができる貴重な一冊なのである。

(まつだ・てつお 編集者)

世の中は偶然に満ちている
赤瀬川原平著、赤瀬川尚子編
2000円+税

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