東京文人の集大成/坪内祐三

 小沢信男さんと初めて会ったのは今から二十年前、私が『東京人』編集者の頃だ。
 私が『東京人』の編集者になったのは一九八七年秋のことだが、当時、いわゆる売れっ子作家とは別に(だからこそディープな)東京文人がいた。
 東京文人とはこなれの悪い言葉であるが、要するに、東京っ子的感受性を持って(それは生れつきの東京っ子以外でも可能だ――東京出身でもその種の感受性を持っていない人もいる――むしろ少ないかもしれない――となるととても貴重だ)、東京についての文章をものする、そういう作家のことだ。
 新米編集者として売れっ子作家と知り会うべき私は、それ以上に、東京文人と仕事したいと思った。
『書生と車夫の東京』や『東京百景』の著者である小沢信男さんは、当時『ちくま』に「私設・東京オペラ」を連載中だった出口裕弘さんと並んで、そういう東京文人の一人だった。
 小沢信男さんの東京物の名著に『あの人と歩く東京』(筑摩書房)があって、その巻末の「初出一覧」を眺めると「長谷川平蔵と石川島人足寄場」の初出は『東京人』89・11とある。
 たぶんその頃、私は、小沢さんと初めて会ったのだろう。
 以来私はしばしば小沢さんと酒席を一緒にさせていただき、時に街歩きを共にすることもある。
 小沢さんと共に街を歩くと、そのマチが立体感というか歴史性を持って迫ってくる。
 立体感や歴史性というと少し大げさだが、もっとさりげない(つまり具体性に富む)立体感や歴史性だ。
 この『東京骨灰紀行』を読むと、その時の、えっそうなんですか、とか、なるほど、とかいった記憶がよみがえってくる。
 例えば冒頭二章の「ぶらり両国」と「新聞旧聞日本橋」。
 渋谷で生まれ世田谷に育った私は、両国と浅草橋と日本橋と人形町(さらに言えば神田)の位置関係がつかみにくい。方向感覚を失ってしまう。
 数年前、両国の劇場「シアターX」で小沢さんと一緒になり、その帰り、両国橋を渡って、浅草橋に向って歩いた。
 途中様々な話(例えばかつての両国今の東日本橋界隈が賑わっていた頃のことなど)をうかがった。
 それはとても貴重な体験で、小沢さんの話を聞きながら、私の体に、東京の歴史(の重層性)が染み込んできた。それから年に一度、染井霊園で宮武外骨を偲ぶ外骨忌に小沢さんにお目にかかるのも楽しみだ。
『東京骨灰紀行』の読者はそれを私同様に追体験することができるだろう。
 もちろん東京の歴史はけっして幸福なものではない。
 たび重なる災厄や大空襲。そのいつの時でも大きな犠牲となるのは、いわゆる庶民、民草たちだった。
 民草代表である小沢さんはその過去を忘れず、記録にとどめて行く。『東京骨灰紀行』はその集大成ともいえる。
 しかもそれを記録して行く小沢さんの筆致はけっして悲痛なものではなく、ユーモラスである。
 小沢さんと話していると、小沢さんはよく、ウヒャヒャヒャヒャヒャ、と笑い声をあげる。
『東京骨灰紀行』も、時にその笑い声が聴えてくる。
 例えば「ぼちぼち谷中」のこういう一節。
 徳川慶喜や渋沢栄一から来島恒喜(大隈重信に爆弾を投げた明治のテロリスト)までがねむるその墓地は、かつては若い男女の「名所」でもあった。「そういう名所につきものの覗き屋の諸君もいました」。そして小沢さんはこう言葉を続ける。「と、断定的に申しあげるのは、不肖私もはるかむかしに覗かれる側のおぼえがほんの多少は……」。
 この「……」に入る言葉はもちろんウヒャヒャヒャヒャヒャヒャだ。その小沢さんの確かな声が聞こえてくる、これは名著である。
(つぼうち・ゆうぞう 文筆家)

『東京骨灰紀行』
小沢信男著
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