二人を結ぶもうひとつの絆/荒井秀直

『ワーグナーとニーチェ』では、若きニーチェのワーグナーに対する感激、協力、そして離反を読むことができる。著者のフィッシャー=ディースカウは、ドイツ・リートの最高の歌手として知られているが、ワーグナーの役の多くや、ニーチェの歌曲六曲も録音しているので、私たちはその彼の演奏を通じて作曲家としてのワーグナーとニーチェを比べることができる。
 ニーチェの『トリスタンとイゾルデ』との出会いはよく知られている。彼がプフォルタ・ギムナジウム(高校)で学んでいた一八六一年、十七歳の時である。その翌年『若い漁師の娘』という詩を書いた。彼は、ボン大学へ入学した一八六五年この詩に作曲している。若い頃から詩を書いていた彼は、作曲にもかなりな自信があったが、ワーグナーや指揮者のハンス・フォン・ビューローには作曲家としては評価してもらえなかった。
 この『若い漁師の娘』は彼が自作の詩に作曲した唯一の作品である。全文を紹介する余裕がないので、前半をおおまかに述べれば……


 陽が登り朝日が差し込もうという時なのに、彼女の心は晴れない。朝霧が立ちこめる。あそこには死が潜んでいるのだろうか。こんなにおびえている私を誰もわかってくれない。


涙に濡れた目で
私はあなたを探し求める
朝焼けの中に輝くものが見える
そうだ あなたが私に挨拶を送ってくれているのだ


あなたはあたりを包む霧の中から
風に乗り馬に乗ってやってくる
この心を鎮めるために
哀れな漁師の娘の心を鎮めるためにやってくる


 涙に光る目をそっと開けた彼女は、明けてゆく朝の光の中に何かを見つける。それは輝いている。それは「あなた」だ。「あなた」は輝き、私に挨拶を送ってくれる。「あなた」は風に乗り、馬を飛ばして近づいてくる。ここには輝きと速さがある。「あなた」は私の心を鎮め、私を悲しみから救ってくれるだろう。
 この「あなた」とは何だろう。自信に満ちて水平線から堂々と昇ってくる太陽だろうか。あるいははるかなる恋人に寄せる幻覚か。この詩は一読してワーグナーの『ローエングリン』第一幕の「エルザの夢」を思い出させる。――身に覚えのない弟殺しの嫌疑をかけられたエルザは、神に祈り嘆きを訴える日々を送っていた。その嘆きの声ははるか遠くまで伝わり、その響きのなかで彼女は眠りに落ちた。夢の中で一人の高貴な騎士が近づいてきた。銀白の甲冑を身にまとい、輝く武器を持ち、彼女に慰めの言葉をかける彼こそ自分を助けてくれる英雄と彼女は堅く信じている。そしてそれは現実となった。彼女を苦境から救ったのが、白鳥のひく小船に乗ってきたローエングリンである。
 ニーチェがこのオペラを知ったのはずっと後のことであるから、『ローエングリン』はこの詩の下敷きにはなっていない。ワーグナーとニーチェの交流のきっかけとなった『トリスタン』からはさまざまなエピソードが生まれたが、『ローエングリン』に関しては表だったものは何も残されてはいない。しかし記録としては残されていなくても、二人を結ぶ目に見えぬ絆がここにもあったのではないかという不思議を、ふと感じなくもない。
 ワーグナーという偉大な人物の前に翻弄されるニーチェ、しかし二人の交友を「星の友情」という美しい言葉で表わし、生涯忘れることのなかったニーチェの若き日の感動と苦悩を、現代の若き世代にもぜひ追体験していただきたい。
 本書は題名通り「ワーグナーとニーチェ」の関係について書かれているので、難解なワーグナーの楽劇論などにはほとんど触れられていないが、人対人の問題に焦点がしぼられていて、記述の筋が通っている。本書が二人に対する入門書としての役割を果たしていると言えるだろう。
(あらい・ひでなお 慶応義塾大学名誉教授)

『ワーグナーとニーチェ』 詳細
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ 著
荒井秀直 訳

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