笑いのチェーホフ世界/松下裕

 チェーホフがモスクワ大学に入学して、医学修業のかたわら、大家族の家計を成り立たせるために書きつづけた大量の笑いの文学――「ユモレスカ」のおかしみ、おもしろさは、わが読書界でも認められて来たようだ。
 たとえばこの集のなかの「十年ないし十五年後の結婚」。――客間にひとりの二十くらいの娘が掛けている。最新流行の服装をして、一どきに三つの椅子を占領している。一つは彼女自身が、残りの二つは彼女の幅ひろのスカートが占めている。そこへしゃれ者の結婚紹介業の青年がやって来て、花婿候補者の話をする。あなたにぴったりの方は、年こそ五十過ぎてはいますが、いまだに金を貸してくれる人がいるのですよ、と。
「あの方くらい巧妙に辻馬車屋から、通り抜けられる門へドロンできる人はいやしません。なにしろ薬屋でさえ掛けで持って帰るくらいの抜け目のなさですからね」
「まあ、その方、借金だけでお暮らしなんですか」
「借金こそが、あの方の主な事業なんですよ。でも料簡の広い、ちっぽけなことにはこだわらない方ですので、そんな仕事だけでは満足なさいません」
 この話でも、「エジソンとわたしの対話」でも、読者は笑いや空想を楽しみながら読みすすめるだろう。チェーホフは若いころから、人間、とりわけ男女の心理の機微に敏感で、深刻でなく語るすべを知っていたが、いつどのようにしてこう目ざとく観察したのだろうか。「わたしの記念日」という文章で、自分の長い、根気のいる売文業を、まったく失敗つづきのように謙遜しているが、実際はその反対だった。この人は複雑で微妙な心の動きを、巧みに余裕をもって、滑稽に語ることができたのだ。
「ニーノチカ」の主人公の亭主の容貌はこうだ。――「猫背ぎみで、長い鼻、せっぽちで、見栄えはしないが、その代り顔立ちは至って平凡で、柔らかで、はっきりしないので、顔を合わせるたびに五本の指でつまんで、友の柔和さとパン生地のような心とに触れてみたいという誘惑に駆られるのだった」
 しまいにはあれほどみじめで屈辱的な立場に追いこまれる善良な男の描写として、一見穏やかで同情した筆つかいのように見えても、引っこみ思案で意気地のない男の、優柔不断で情けない本質を辛辣、的確に突いている。チェーホフは柔弱なぐずがきらいだったのだろう。彼はまた、くそまじめな人間も好まなかったらしい。「壁」という短篇で、登場人物の口をとおしてこう言っている。
「『いやいや、まったく正直な人間だけはごめんだね……。正直すぎる人間は、きっと自分の仕事をよく知らないか、そうでなけりゃ、冒険家か、ほら吹きか……愚か者なんだよ……。まっぴらごめんだね……。正直な男は盗みはしない、盗みはしないがね、そのかわり、あいた口がふさがらないようなことを、一どきにしでかすものだ……』。彼はちょっと思案してからつづける。『五人の男がやって来たがね、どれもこれも似たような連中ばかりだった……。ありがたい幸せさ』」
 馬鹿正直な人間は、「自分の仕事をよく知らない」という観察が慧眼で、チェーホフらしい。
 チェーホフは、「自殺を企てる人たちのために」の副題のある「すばらしいかな人生!」のような気概、臨機応変の態度で人生に勇猛に立ち向かって生きた人だった。そうしてこれら多くの「ユモレスカ」を書き残したのだった。貧しいところから身を起こし、不断に文学の仕事をつづけて休むことを知らない生涯を送ったために、四十四という年で早死にしなければならなかった。
 チェーホフは、複雑多岐にわたる人間生活や心理を、センチメンタルでない確かな眼で、細かに深く見つめつづけた。また、錯雑した、善ばかりではない俗世間の姿、仕組みを、広く精しく知りつくして描きつづけたのだった。
(まつした・ゆたか ロシア文学者)

『チェーホフ集 結末のない話』 詳細
松下裕 著

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