本当は恐ろしい日本の道徳/河野哲也
ちくま新書からこのたび出版された拙著では、新しい道徳教育のあるべき姿について論じた。この本のなかで私は、自分が従来の徳育に感じてきた二つの「なぜ」に答えようと試みた。
ひとつ目の「なぜ」は、「どうして日本の道徳教育は、こんなにも辛気臭く、説教臭いのか」というものである。
たとえば、中学校の指導要領に見られる「道徳的」価値のいくつかを列挙してみよう。「礼儀」「感謝」「公徳心と社会的連帯」「勤労と奉仕の精神」「父母・祖父母への敬愛」「社会の一員としての自覚」「日本人としての愛国心」。
私の感覚からすれば、見るだけで鬱陶しくなる言葉ばかりが並んでいる。全く聴く気になれない授業になりそうだ。
道徳教育は、「道徳」の時間のなかでだけ行われるものではない。石原千秋が『国語教科書の思想』(ちくま新書)で見事に分析している通り、戦後、日本では、国語教育が道徳教育の役割を担ってきた。特定の人物像を理想像に据えて、それを目指すというパターナリスティックな徳育だ。さらに石原によれば、近年、『心のノート』という「不気味な『道徳教育』の冊子」が作られ、「明らかに権力に都合のいい内面の共同体を作りだそうとする」意図が窺えるという。石原の指摘には全く同意できる。
日本の道徳教育が胡散臭いのは、単純に言って、個人の尊厳、各人の自由、人間の多様性を軽視しているからだ。個人を尊重しない道徳教育は、結局は、集団への帰属と貢献ばかりを強調する全体主義的強制と変わらなくなる。
二つ目の「なぜ」は、組織不正の問題だ。バブル崩壊以後、組織的な不正・不祥事はひっきりなしにマスコミをにぎわし、深刻な社会不信をまねいてきた。組織不正とは、問題が一部の悪意ある人間によって引き起こされたのではなく、組織構造や業務のあり方全体に起因している不正をいう。個人としては小さな犯罪さえ起こさない人たちが、組織人としては驚くべき数の人に危害を与え、人の命を奪うことさえある。さらに、その罪にまったく無頓着であることも多い。
侵略戦争、奴隷制、民族虐殺、差別、搾取。人間の巨大な罪のすべては、集団行動の産物である。なぜ、「善人」の集団から巨悪が生じるのか。どうすればそれを防げるか。これまでの倫理教育は、個人の行動に焦点を当てていた。しかし、自分の所属する集団を道徳的に善きものにしていくという組織作り・社会作りの視点がなければ、集団の悪は決して防げない。
以上の二点、すなわち、「個人の尊厳」と「善き集団形成」が拙著での道徳教育の原則となっている。そして、「現代社会における道徳教育とは、リベラルな民主主義社会を維持し、発展させる働きを担う主権者を育成することだ」と結論した。あるべき道徳教育とは、民主主義の主権者を育成することである。
民主主義は、単なる政治制度ではない。それは、道徳性を中核にした思想運動であり、他者との共同の範囲を拡大して、より多くの人々を包括する社会を作ろうとする道徳的実践である。民主主義が進歩するのは、これまで社会の傍流に属し、不当にその利益が無視されてきた人びとへの共感によってである。
私見によれば、日本人は、しばしば、弱肉強食的な考えを好み、権力主義的な傾向を強く持った人々であり、他者への共感と想像力に甚だしく欠けている。日本人の同調志向や協調性は、その権力主義から理解されるべきである。だが、それは、おそらく、彼・彼女らの向上心と勤勉さの裏返しでもあるのだ。しかも、明治以来の立身出世的な教育指針が、この傾向を後押ししてしまっている。教育者たちはこの逆説に無自覚だ。
日本の子どものための道徳教育は、個人の存在をそのままに肯定し、人間を包み込む(インクルードする)姿勢に立脚すべきである。この社会では、そうした共感の制度化としての民主主義の価値を、繰り返して、強く主張する必要がある。
(こうの・てつや 立教大学文学部教授)
『道徳を問いなおす リベラリズムと教育のゆくえ』 詳細
河野哲也 著
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3