やがて感動的な「普通」/津村記久子
どのあたりでだったのかは思い出せないのだけれど、ページをめくりながら、この小説に終わって欲しくないと思い始めていた。
たとえば、華々しいことや素敵なことが続く享楽的な内容だからというわけではないし、あまりにも不幸なことが続くのでおもしろいんだというわけでもない。あえて答えを探すと、この物語を織り成す無数のエピソードやその細部の中に、自分自身を見つけたいと思ったからかもしれない。言葉にできなかった、ただ見送るしかなかったあの時のあの気持ちについて、書かれているかどうか確認したい。完全に符合することはなくても、本書のどこかには、人が生活していく上で被るあらゆる小さな痛みが拾われている。それを目にすることによって癒されるというのではないけれど、端正な小説として形作られていることを見届けるとほっとする。自分は生きていていい、と思うのだった。この、良いわけでも悪いわけでもない場所で。
ほうじ茶を淹れてやると予想の三倍ぐらい喜ぶ友人、コンビニの前に男友達と一緒に溜まっている幸薄そうな少女、親しくもない友人の自慢話に眠くなる感じ、話を聞かない一方的なじじい、晴れた日に洗濯をする幸福、使えない後輩と、できる人である演出がうまいクズの女上司。そして細々と営む雑貨屋は中学生に万引きされるけれども、友人の弟の元彼女と細い縁で手繰り寄せられ、お茶を飲んだりもする。描かれていることの一つ一つが、挙げていけばきりがないほどの実在的な感触を持っている。ときどき、うまい小説における描写の精細さが、どうして現実の劣化コピーとは異なっているのかについて考えるのだけれども、本書を読んで、ひとつの答えが出たような気がする。たとえるなら、十六世紀とか十七世紀の、ベルギーやオランダの何人かの画家たちの作品を知る時の感覚に似ているのだ。こんなに隅々まで描かれている、こんな光を捕まえている、と。その感じは、「生きていていい」と思わせることと無縁ではない。普通であることの多様さ、興味深さがじっくりと描かれている様子を目にすることによって、応援されたわけでも甘やかされたわけでもないのに、気が付いたら、自分が日々の雑事にかまけ、特に目だたず、時々は理不尽なことを言われたりしながら、それでも生きているということを肯定する力を身に付けている。だから、小説の終盤で、主人公の一人の本田かおりが思う「わたしにわかるのは、今の自分の気持ちだけだ」というモノローグは、本当に感動的に響く。この小説を読む、多くの戸惑いながら生きている読者を救う一文だと思う。
あまり主張はしない、それぞれに個性的な「普通」の、その日常におけるここという部分が正確に拾い上げられて、数え切れないほどに提示される気持ちの良さだけでも、本書は読む価値のあるものだけれども、ときどき挿入される、その章ごとの視点人物以外の登場人物の心情が明かされる瞬間が、すばらしくスリリングで面白かった。いわゆる「神の視点」だろうか。たとえば、春日井夏美の娘みなみ(三歳)が、なぜ、別の人物ではなく水島珠子に話しかけたのか、娘の不倫を疑う本田かおりの母親が、どれだけ的外れなことを考えているか、といったことが、本書では、伝聞ではなくわかる仕掛けになっている。これがなんというか、ポップアップ絵本を開いていく時のようなわくわく感さえ誘う。
読み終わった後、旅に関する話を読んだ、もしくは、旅に出てきたような気分になった。誰も旅には出ないのに。陳腐な言い方をすれば、生きていることは旅なのかもしれない。また、日常に起こる物事の細部は、旅で見るものにも匹敵するのだと、理屈ではなく感覚で理解させる。その旅の先で見てきたものこそは、世界に散らばる小さな痛みと幸福を集めて仕上げられた、美しいモザイクなのだろう。
(つむら・きくこ 作家)
『虹色と幸運』 詳細
柴崎 友香 著
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