特集 筑摩選書創刊一挙六点! 編集担当者が語る「この一冊」
内田樹『武道的思考』 詳細
五月も終わり。東京駅八重洲北口で内田先生をお待ちしていた。稽古着とゲラでパンパンになった鞄をかついだ先生が、「(受けないよ、新しい仕事は。ね、わかってると思うけど)」、無言の目で訴えながら、のしのし歩いて来られた。全身から「お断りオーラ」が黒々と噴き出していた。武人は戦前に脳内で戦闘をシュミレートする(『バガボンド』や中国映画『HERO』に詳しい)。私は瞬殺された。「武道論」ご執筆をお願いする身、それくらいの心得はある。なおゴリ押しできるのは、よほど鈍感か、武人としての器量が勝る場合のみ。後者は当然、ない。説得ももっての外だ。先生が本気になれば中国外交部だって沈黙する。
教員生活最後の一年。新規の仕事は断って、できるだけ学校での時間を大切にしたい──そう何度もブログで書いておられたし、当然尊重させていただくつもりだった。個人的に、人情として。「ご隠居生活」に入られてから、ゆっくり書いていただこう。神戸へも何度も出張できていいな。そう思っていた。ところが、事情が変わった。お役目を優先せねばならなくなってしまった。
……打ち合わせ用に目星をつけていた喫茶が潰れていた。目を泳がせながら甘味処に入った。時間的にきっとご空腹だ。気兼ねなくお食事を頼んでいただけるよう私は京うどんセットを注文した。「僕、抹茶ラテ」。「(あ……)」。セットのわらび餅が箸からまろび落ちた。上の空の冗談はことごとく空を切った。あとは何も──神戸女学院が舞台になっている『空の境界』のDVDを差し上げたことしか覚えていない。これは喜ばれた。引き受けて下さったのはDVDへの反対給付か。「抹茶ラテごちそうさま」というメールを二回も頂戴したから、そっちなのかもしれない。(Y)
狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』 詳細
「若冲を出せば展覧会は成功する」と言われるほど、今ではその人気が定着した、江戸の絵師・伊藤若冲。ブームの火つけ役となったのは、二〇〇〇年に京都国立博物館で、わずか一月間のみ開催された「没後二〇〇年 若冲!」展でした。近世絵画愛好者の裾野を拡げたといわれる伝説的な展覧会です。
この展覧会を企画したのが、当時京博の学芸員だった本書の著者、狩野博幸さんです。意外なことに、当初、若冲展に反対する声も多く、軋轢を押しての実現となったのだそうです。ほかにも「曾我蕭白展 無頼という愉悦」など、京博の名を世に轟かすユニークな企画展を数々手がけられました。作品と同時代の思想、宗教、文学、演劇、社会状況など幅広い文化の総体から肉薄する狩野さんの研究手法には定評があります。
本書では、若冲はじめ、岩佐又兵衛、英一蝶、曾我蕭白、長沢芦雪、岸駒、葛飾北斎、東洲斎写楽ら、江戸の絵師を取り上げます。いずれ名前を見れば作品が思い浮かぶ絵師ばかりですが、作品が後世に残る分だけ、うっかりすると、彼らが私たちと同じように呼吸をし、ごはんを食べ、人とつきあい(あるいは厭い)、江戸の浮世を生きた、血の通う人間であることを忘れてしまいがちです。そこに、狩野さんはまなざしを向けます。
三〇年近く勤務した京博で、閉館後、ひとり思う存分作品に向かっていると、江戸の画家たちの激しい息づかいまでがわかるようなった、と狩野さんは言います。そしてそれは「夜中にたった独りで作品を凝視するものに対する恩寵」だ、と。
本物に触れ、本物を〝見倒した〟人にしか訪れることのない「恩寵」。本書を通して、その片鱗に浴していただければ幸いです。(I)
玄侑宗久『荘子と遊ぶ――禅的思考の源流へ』 詳細
南海の帝と北海の帝は、中央の帝である渾沌の恩に報いるために、その顔に眼、耳、鼻、口……と、一日にひとつずつ、穴をあけていった。七日経ってすべての穴があけ終わると、渾沌は死んでしまった。
これは、「渾沌、七竅に死す」という有名な寓話で、『荘子』内篇「応帝王篇」の掉尾を飾っています。
この渾沌帝には、なんと息子がいました。名づけて渾沌王子!
眼も耳も鼻も口もなく、頭と体の区別もない、ぼよぼよもやもやした生命体で、大阪えべっさんの縁日で荘周さんに出遭い、なぜか今は周さんのアパートに寄宿しています。機嫌のいい時と悪い時とがあるものの、七面倒くさいことは一切考えず、旺盛な生命力を発散させて、あたかも春のような和やかさであたりを包んでしまう。人間はおろか、犬、猫、守宮、百足や蟻地獄にいたるまで、あらゆる生命の内なる声を聞き、気を通わせ、病を癒し、心を平らかにする。……こんな有難い人物が、本書には登場します。
さらに、モーさんこと孟子やケーシー先輩こと恵施も短期滞在。周さんのまわりは、にぎやかこの上ない。
当の周さんは、といえば、○に福の字を染め抜いた黄色のTシャツを着て、犬のナムや赤トラ猫を従え、頓狂な歌をうたい、花札、麻雀、カルタに興じ、ミンミン蝉の真似してみたり、半裸で行水してみたり、日がな一日、何するでもなく忙しい。そしてページを繰るごとに、あたかも命を吹き込まれたように、伸び伸び闊達に振る舞うようになっていきます。
こんな破天荒で楽しい、『荘子』読本がかつて存在したでしょうか。禅僧にして作家である玄侑宗久さんの面目躍如。達意の一冊です。(I)
小谷野敦『現代文学論争』 詳細
筑摩書房は今年で、創業七十周年を迎えました。創業者の古田晁と同郷の友人で、筑摩書房の編集を長い間支えてきたのが、作家の臼井吉見です。私どもの全集の多くは、臼井が企画し、手がけたものでした。
その臼井が、晩年、大きな論争に巻き込まれました。彼が一九七七年に発表した「事故のてんまつ」という小説をめぐってのことです。この小説は、川端康成の自殺を扱った作品ですが、その隠された(であろう)秘密を暴くような内容で、当時、わが社が刊行していた月刊誌「展望」に掲載され、刊行と同時に、多くの反響を呼び起こしました。そして、さまざまな論者から臼井は攻撃され、単行本となった『事故のてんまつ』はその後絶版となり、結局、ノーベル賞作家、川端康成の死の謎は、タブーとして、解けぬままに終わりました。それでもこのように、作者や作品の評価・解釈、あるいは政治的見解をめぐる文学論争が、かつては頻繁に行われていたのです。
その臼井吉見が、今はない筑摩叢書というシリーズで、『近代文学論争(上・下)』を一九七五年に刊行しました。本書『現代文学論争』は、その後を受け、つい最近までに起こった十七の文学論争を取り上げて解説を試みています。
著者の小谷野氏は、文学論争じたいがなくなりつつある、昨今の文壇の風潮を憂います。著者ご本人も、論争好き、とまでは申しませんが、これまでいくつかの論争を戦わせた武勇伝をお持ちです。たかが文学論争、されど文学論争。論評の良し悪しは別として、つい先ごろまで、今よりもっと文学が元気だった頃の熱気を、本書で、どうぞご堪能ください。(K)
古澤滿『不均衡進化論』 詳細
「この人に会ってみませんか」
と、最相葉月氏から一冊の本を渡されたのが始まりだった。その本が『DNA's Exquisite Evolutionary Strategy』、古澤さんが十年前に著した唯一の著書だった。
読み始めて、あまりの明快さに驚嘆した。何しろほんの数頁で理論は核心に至る。DNAの二重らせんを構成する二本の鎖は、それぞれに合成方法が異なる。一本は精確で、もう一本はエラーだらけ。このしくみが、進化を促進するという。
アイデアは怖いくらいにシンプルだが、出だしから従来の進化の本とはまったく違うアプローチで、正直戸惑いもした。しかし、その意味するところが一つ一つ明らかにされるにつれ、目から鱗がはらはらと落ちていく。そうか、これは過去に「起こった」進化の話ではなく、進化とは「いかにして起こるか」という進行形の話なのか!
興奮冷めやらぬまま古澤さんにお会いし、
「進化加速の実験ができるって本当ですか」
と、今思えば失礼きわまりない質問を投げかけたものだ。
「もういくつか結果が出ています」
古澤さんは、現状でわかっていること、わからないこと、理論の可能性と問題点を、時にファミレスのナプキンの裏に系図や模式図を描きなぐりつつ熱く語られた。
不均衡進化論として一般向けにまとまった形では初めて公になる本書にも、穏やかながらも熱い口吻は十二分に発揮されている。進化論最前線の熱気を存分にご堪能いただきたい。(T)
リービ英雄『我的日本語――The World in Japanese』
リービ英雄さんに初めてお目にかかったのは昨年の五月、伊藤整文学賞贈呈式だった。創刊にあたり、ぜひご執筆をお願いしたいと手紙を差し上げたのだが、なかなか連絡が取れないので、一計を案じた。贈呈式には確実においでになる。そこを奇襲する。かくしてお祝いの席に、不埒な魂胆を隠し持った者が紛れ込んだのだが、リービさんはおおらかに応じてくださった。
二〇〇八年に弊社から刊行した水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』が話題になっていた。「普遍語」である英語がいよいよグローバル・スタンダードになっていく時代、「現地語」にすぎない日本語の行く末はどうなるのか、辺境の言葉として露と消えゆく末路なのか。そんな疑問に、リービさんならどんな答えを提示されるだろうか。それが、執筆依頼の趣旨だった。
リービ英雄さんは、日本語を母語としない西洋出身者として初めて日本文学作家となった方。いまでこそ、海外出身の日本語作家が誕生しているが、リービさんが『星条旗の聞こえない部屋』でデビューした一九九二年当時、それは「奇跡」というほどに驚きをもって迎えられた。以来、「日本語で書くこと」に、誰よりもこだわりと愛情を持っておられるリービさんに、いわば「日本語的半生」を語っていただくことで、日本語の成り立ち、日本語の本質、日本語の魅力を、再認識することができるのではないか。
そうして、本書が出来上がった。リービさんを通した「日本語」からは、私たちの意識することのなかった深層が浮かび上がってきた。
辺境の「現地語」である日本語は、意外に、相当、強い。(I)
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