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ちくま新書『現代のピアニスト30』の著者、青澤隆明氏が、今月来日するピョートル・アンデルシェフスキにインタビューしました。昨年来日時のものですが、かなり濃い内容に仕上がっており、『現代のピアニスト30』掲載の「アンデルシェフスキ」の続きにあたる内容でもあります。

「バッハを演奏する時に、『自由』を感じる。しかしこの『自由』をどう扱うべきかが難しい」とアンデルシェフスキは述べ、その後、新譜に収められた「イギリス組曲」への想いを語ります。ストイックに、厳格な姿勢を貫く演奏スタイルが、このインタビューにも表出されています。 

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 ピョートル・アンデルシェフスキのリサイタルは、日本の聴衆にとっても、また彼自身にとっても待望の機会だろう。2011年夏から1年半の休業に入る直前にも、日本でリサイタルを行っていたが、来る2月の演奏会は以来、実に3年半ぶりのリサイタルとなる。

  2012年秋にはヘルベルト・ブロムシュテット指揮バンベルク響とモーツァルトのト長調K・453、14年夏にはヤクブ・フルシャ指揮都響とバルトークの第3協奏曲を聴かせたし、今回も次期音楽監督パーヴォ・ヤルヴィが指揮するN響とのモーツァルトのハ長調協奏曲K.503が控えている。そして、リサイタルでは、昨年晩秋にリリースした最新アルバムJ.S.バッハ「イギリス組曲集~第3、1、5番」からの曲も含めて、アンデルシェフスキが関心の中心に置くJ.S.バッハとシューマンを主に、最新の進境がじっくりと聴ける。

 前回の来日で、フルシャ/都響と共演したバルトークで連夜水際立った演奏を聴かせた明くる日、 アンデルシェフスキに話を聞いた。バッハのこと、編集中の新録音「イギリス組曲集」や、最近の音楽的関心、来日リサイタルのことなどをたずねて、初夏の午後の1時間はあっという間に過ぎていった。


《音楽への愛、バッハへの道》
 「さっきお昼を食べながら、愛について考えていたんだ」と、アンデルシェフスキは微笑みながらやってきた。「そう、ならば愛について話しましょう」と私は言った、「愛って、どんなふうに定義します?」

 「愛の定義だって?」と、アンデルシェフスキは言う。  「そうだな……、たぶんこんなふうに言うことはできるんじゃないかな、愛というのは……怖れじゃない、よね?」

―― ええ、ときにはね。でも、ときには怖れとともにあるのでは。

「いや、私が思うに、愛は怖れと対立するもの。そうは思わない?」

―― そうかも。で、あなたの音楽への愛は、怖れの正反対にあるものなのですね? ご自身の音楽への愛や愛着についてどんなふうに説明しますか?

「うーむ……一般的な愛について話をしていたんだけど。どう言ったらいい?」

―― ともあれ、あなたは音楽に愛されているでしょう?  いろいろな面でそう思うけどな。

「どういうこと?」

―― 音楽はあなたの心を、これほどまでに強く捉えている。

「ああ……それは本当だよ……」

―― 音楽とのそうした特別な関係をいつから意識しているのですか?

「とても早くから。3歳のころだと思う」

―― それはピアノに触る前のこと?

「ずっと前だよ」

―― ということは、音楽を聴いていて?

「そう、聴いていて」

―― それはJ.S.バッハ、ベートーヴェン、それとも他の誰かの曲?

「なんにせよ、家のなかにあった音楽で、よく覚えていないけど……最初に記憶しているのはモーツァルトとベートーヴェン」

―― その後に、バッハがやってくるわけだ。

「ずっと後、ずいぶん経ってからね」

―― 10代の頃?

「いや、もっと後。19歳や20歳の頃」

―― ブリュノ・モンサンジョンのドキュメンタリー・フィルムのなかで、確か16歳のときにピアニストになる夢を止めたと言ってましたっけ。

「そう」

―― じゃ、その後のことですね。

「ええ」

―― モーツァルトの「レクイエム」を聴いて、それがきっかけであなたはピアノのもとに戻った。その後で、バッハを発見したわけですね。

「ずうっと後になってね。あの頃は、いまと違って、1年がとても長かったんだよ。でも、確実に後年のことだ。バッハは私にとって、まったく親しいものではなかった」。

―― では、バッハへの壁を破って、正面から向き合うことにしたのは、いつどうやって?

「うーむ、ゆっくりと徐々に。いきなり盛り上がるようなものじゃなくてね。ほんとうの始まりは「ロ短調ミサ」だった。そこから道を見出して……でも、それは私たちが何について話しているかによるな。演奏について? それとも、私の音楽観について?  両者は異なるものごとだからね」

―― 両方について話しましょう。

「というのも、バッハでは、私なりの演奏法を見つけた。まず、音楽に対して自分の感性や夢というものがあって、それからかたちを与えていくわけで……」

―― どうやって、そうしたコンセプトをやりくりしていくか、という……

「そう。どのようにしてうまく扱っていけるかだ。私はあるバランスを見つけた、自分のコンセプトに、ピアノでどうちゃんと具体的なかたちにしていったらいいのかという……」

―― フィジカルに?

「ああ、フィジカルに。また、公開演奏をすることとか、そういったことも。で、もし君が絶対的なこと、純粋に音楽について話しているのならば、私にとってバッハはもっとも近い作曲家ではない」

―― それは、どういった点で?  非常にプロテスタント的であるとか……

「いやいや、プロテスタントであることは問題ではない。自分がバッハを理解できたと感じたことが決してないんだ」

―― そう感じられたことすらない……

「ああ、ない。何人かの作曲家は非常に自分に近いと感じるが、バッハは違う。もちろん、それは非常に主観的なものだけれど、少なくともある作曲家とは完全に一体となったと感じる瞬間があるわけで」

―― あなたにとっては、シマノフスキとか、シューマンとか……

「シマノフスキ、シューマン、ショパンもある瞬間にはそうだし、ベートーヴェンはそういうことがすごく多い」

―― それはごく最初の頃、とても若い時分からそうでした?

「ごく初期からそう。それから、自分で拒絶して、また戻ってきたから、ちょっと複雑だけれど……」


ピョートル・アンデルシェフスキのJ.S.バッハは、これまでの来日でも何度も演奏されてきたが、いわゆる「イギリス組曲」に関しては、デビュー録音の第6番は多く採り上げられたほか、2011年5月、音楽活動休業前の所沢ミューズのオール・バッハ・リサイタルで、フランス組曲第5番、イギリス組曲第6番に先だって、イギリス 組曲の第5番がようやく披露された。

 バッハの組曲連作のなかでも、フランス組曲、パルティータに先立つ、比較的初期の作品であるだけに、アンデルシェフスキが先に語っていた自由の裁量も、さらに緩やかで広大な側面があるだろう。インタビュー時には、その「イギリス組曲集~第3 、1、5番」の編集作業にエネルギーと神経をすり減らしていたアンデルシェフスキだが、アルバムは海外が11月、日本では12月頭にリリースされ、次なる来日公演でも収録楽曲から演奏される。バッハをめぐる話は大海という心象から、自然と「イギリス組曲」のことへと進んでいった。

《バッハの自由という困難》
―― J.S.バッハの音楽についてとくに困難を覚えるのはどんなところですか、演奏する上で、また、考えるにあたって。

「私が思うには、自由ということが難物でね、その自由をどう扱うべきかが難しい。この音楽は弾き手に無尽蔵の可能性を与えてくれる、だがそれをどのように扱ったらよいものか……非常にオープンで、しかしそれを演奏するためには……」

―― ベートーヴェンは非常に確固たるものだけれど……

「そう、ベートーヴェンはその意味ではもう一方の極と言える。ベートーヴェンはおそらくいつだってパーソナルに語りかけるし、彼の音楽は彼個人に関するもので、モノローグ(独白)だから。バッハは決して自分自身について語らないし、彼はまるで声というか……」

―― 万物の声。

「そう、ほとんどすべての事物の声だ。そう、では、すべてのものをどう扱えばよいのか?  鍵盤、ピアノ、エゴや自分の感性で?  これが巨大な困難なんだ。こうしたすべてのものをどうやって取り扱ったらいい?  このコスモス(宇宙)をどう扱ったものか、それはフレームに切りとることのできないものだし、しかし枠を定めないことには表現することができない。フレームがとれないならば、そこに言葉はないし、表現する手だてはない。コミュニケーションをとる術がない。だから、コミュニケーションをとるためには、それをフレーミングする必要があり、これがバッハでは実に困難なことだ。どうやって、自分なりのフレームを選び、どうやってこれを枠どったらいい?  それが、私の言う自由の意味」。

―― 自由でもあり、ある意味では混乱でもある。

「そう。うーん、それはまた実に苦しいプロセスでもある。大海に出て、そこで自分用のスイミング・プールをつくらなきゃいけないって感じに近いね」と、アンデルシェフスキは ため息をつきながら、苦笑する。「そして、これはほんとうに不愉快なものだ。それでも、大海をあるがままにしているわけにはいかない、なぜならともかくも 私はこの音楽を演奏したいのだし、そのためには自分でエリアを定めなきゃならないわけだ……」

―― それから、地図をつくらないと。

「そう、地図だ! 地図を描かなきゃならないんだよ」

―― その地図だけれど、どんなふうに感じます? どんどん広くなっているものなのか、それともだんだん狭く絞り込まれてきているでしょうか。この10年ほどで、あなたのバッハ地図は広くなったのか狭くなったのか、明確になったのか、それともさらに漠たるものになったのか。

「うーん……さらに極端になったのではないかと思う。だから、より狭まったのではないかと。きみの質問に答えるならね……」

―― 狭まったというのは、つまりさらに厳格になったという意味?  それとも?

「うーむ」

―― でも、昨晩あなたがアンコールに弾いたサラバンドは自由だったと思うけれど……

「OK…… 昨日のサラバンドは私もとても自由に感じたけど、でもあれはここ14年間弾き続けている作品だからね。ここでもまた君の質問が、バッハの作品を新しく学ぶことについてのものか、20年や15年間演奏してきたバッハの作品を弾くことについてかということで大きく事情は異なるよね。とはいえ、バッハの作品を新たに勉強するということに関しては、ますます難しくなってきているし、もっと狭まってきていると思うな、うん」


《イギリス組曲のCD録音をめぐって》
―― 近年は、新しいCD録音のために、バッハの「イギリス組曲」に取り組んでいますね。いままでにバッハ作品を含むものでは4枚のCDがありました。最初の CDでは「イギリス組曲」第6番、次に「フランス風序曲」と「フランス組曲」第5番、そしてパルティータの第1、3、6番がありましたし、さらに……

「カーネギーホールのライヴ録音で、パルティータ第2番もあるし」

―― ということで、次のCDがバッハ録音の5作目になります。このタイミングで、シューマンの後で、もう一度バッハに取り組み、「イギリス組曲」に焦点を当てるのはどのような選択からですか?

「それはプロジェクトであって、自発的な選択ではなかったと、正直に言わなくてはいけないね。すでに何年も何年もかけて考えてきた息の長いプロジェクトだよ。 そして、2つの組曲の準備ができていて、それは第3番と第5番だったが、アルバムにまとめる目的から3つめの組曲が必要で、ここ5年間私はどれにするか決めることができなかった。そして、ついに第1番に決めたわけだけど、これは最近5年間どういうふうにかたちにするか、どうフレームを与えるか、ずっと考え続けてきた作品だ。ということで、それはプロジェクトで、シューマンの後にこれをすべきだというようなものじゃない。何年もかけて熟してきたものなんだよ」

―― なにかしら自分自身の内的な意志から、なにかしら思いや感情の外からやってきたものだという……。

「ややそうだね」

―― でも、2007年だったと思いますが、東京でのリサイタル・プログラムを「イギリス組曲」第4番から第6番に変更したことがありましたよね。

「そんなことあった? 覚えてないな」

―― ええ、当初は「イギリス組曲」第4番をプログラムに組んでいました……

「第4番? ほんとうに? 思い出せない。ずいぶんと昔のことだからね」

―― シューマンの「フモレスケ」を弾いたときですよ……だから、第4番という選択肢もあったのかと思って。

「当時はそうだったのでしょう」

―― 結果として、アルバムを通じて、ギャラントリー(当世風舞曲)は3つとも違う曲調が並びましたね、ブーレー、ガヴォット、そしてパスピエと。

「ええ」

―― とてもヴァラエティがある。多様なスタイルの音楽が連なることになりますが、第1番、3番、5番、この3曲での統一観をあなたはどのように導くのでしょう?

「どんなふうに達成するかって? そんなことができるかどうかまだわからないよ。複雑なプロジェクトなんだ。それはほんとうに、言ってみれば、私にとっては知的に高度な要求をされるプロジェクトで、どんなものが仕上がるのかまだ自分にもわからない。まだ編集作業も終えていないしね。だが、それぞれの作品が、ひとつずつ別々のプロジェクトになり得るようなものだと感じる」

―― なるほどね。

「だから、この3つの組曲は私にはとても大きい。一曲ですでに大ごとだよ」

―― とても要求が大きいのでしょう。

「ああ、たぶんそうです」

―― それで、こうした状況は、パルティータに取り組むときとはだいぶ違うものですか? イギリス組曲において、特別に難しいのはどんなところでしょう。

「イギリス組曲で特に難しいのは、バッハのかなり初期の作品であることで、それほど多くのことが書き表されているとは、私にはどうも思えない。パルティータでずっと精確になっているとは思わないけれど、彼がずっと多くのことを書き記してはいる。私たちが話してきた自由に関しては、イギリス組曲のほうがもっと極端だと言える。私にとっては、もっとも極限的な作品だね」

―― 自由という意味において?

「自由ということ、それから理解可能なコミュニケーションのかたちへと整理していくことにおいて」

 ピョートル・アンデルシェフスキは、ストイックなまでに厳格な姿勢で作品と向き合い、慎重な歩みで表現を彫琢する。コンサートでの毎回の演奏が、そうした弛みない研鑽のプロセスだし、レコーディングではさらに徹底した自己検証が行われることになる。

 長い時間をかけてテクストを再構築するように、自分自身の演奏解釈を厳格に築いていくアンデルシェフスキ。レパートリーの選択とCD制作をめぐって、さらに話を続けよう。


《レコーディングと新たなレパートリー》
―― イギリス組曲の諸作にはごく一部を除いて自筆譜が残されていないかわりに、異稿がありますよね。

「ええ。たとえば第1番では、私はクーラントの順序が異なる初期のヴァージョンを使うし、第2クーラントはほぼ初期のもので弾いている」

―― つまり、ある意味、バッハのもっとも初期のヴァージョンを採用したのですね。

「この組曲に関してはそういうことになる。でも、それは非常に主観的な選択であって、私がそこに厳格だったということではない。クーラント2についてはそうしたが、残りはいわゆる後年の、おそらくもっと公的なヴァージョンを用いている。とはいえ、この第1組曲では、自分自身に多くの自由を許した。きみも知っているとおり、いつもなら私はテクストに非常に厳密だし、テクストというものにいささか執着しすぎているよね。しかし、この組曲については情報が乏しい。だから、私は自身に多くの即興を許したんだ」

―― それは、とても興味深いですね。

「厳しさはぐっと少なくなっているよ」

―― つまり、この作品で、あなたはある種の自由を愉しみ、しかも自由を選択することに痛みを感じていた……

「ええ……」

―― バッハの他の鍵盤作品と比べて、これらのイギリス組曲に他にも違う自由や難点を感じたことはありましたか。

「ああ……聴衆の前で演奏すること? 自分自身のために弾くという意味で? それとも……

―― 自分自身として。

「答えるのが難しいな、ふふふ(笑)」

―― では、演奏会で弾くことに関してはどうでしょう?

「第6番は、演奏会で弾くには、とても効果的だ。第1番は、私はまださほど演奏していないし、数日後にシンガポールで弾く予定だけれど、この第1番と第5番についてはコンサートで演奏するのに適したものかどうかまだ確信がない」

―― ということは、いまも自分のフレームを探しているということ?

「うーん。CDのほうが向いてるんじゃないかな、おそらく」

―― アルバムのレコーディングはいつ行われたのでしたっけ?

「昨年、第3番から録り始めて、第1番と第2番をこの春に録音した」

―― とても最近のことですね。

「そう」

―― で、いまが編集のさなか。

「第1番は6月に終えた」

―― 編集作業というものについての考えかたを聞かせてください、一般的な話として。

「ああ、私はエディティングを非常に厳密にするから、あらゆるものを編集することになる。もちろん技術的な事柄は人に任せるけれど、編集作業には細心の注意を払っているよ。いつものことだけど」

―― テイクを選ぶのはとても困難ではないですか?

「イエスでもありノーでもある。つまり、難しくはないけれど、とにかく時間がかかるし(笑)、集中力が求められる。なぜなら、真っ白なキャンバスから始めるわけだよね。ひとつの楽章に10のヴァージョンがあるとして、最初はまだまったくCDにもレコードにもなっていないわけだから、まずはなにかしらから始めなくてはいけないわけだ(笑)。始まりは静寂で、そこからスタートしてこれはなんとか行けるかなというものにOKを出さなくてはいけない。いろいろある他のものではなく、このひとつのヴァージョンからスタートして、そこから続きを追っていくことになる。つまり、基本的にゼロから始める。そう、これは難しいけれど、でも……確かに私が楽しんでいることでもある、とても不健康であるにも関わらずね……」

―― 不健康というのは?

「精神的にも、肉体的にも。一日中、ヘッドフォンをして座っているのだから……」

―― そして、記録された自分自身に向き合うこともだね。

「そう、自分自身に向き合い、音楽作品に向き合い、比較してどれが意味をなすかを決定する。それは私の好きなことだし、かなり創造的なプロセスだ。しかし、エディティングでは、自分で音を出したり変えたりすることはできないから、それがなにより難しい」

―― バッハに相応しい音を探すのに難しさを感じたことは?

「それはない」

―― 自然と出てくるもの?

「自然なものなんてないよ。ナチュラルなものはどこにもない……たぶん、モーツァルトがときには自然なだけ、私にとってはね」

―― シューマンは?

「ときにはね」

―― と聞けば、次の来日でのリサイタルがますます楽しみですね。

「ええ、私にとっても」

―― どんなプログラムになるのかな。バッハは弾くのでしょう?

「ええ」

―― シューベルトのハ短調ソナタは?

「ここ1、2か月で考えが決まるでしょう。というのも、この夏は少し時間があるから、ついになにか新しいものに取り組めると思う」

―― シューマンの「精霊の主題による変奏曲」にも?

「この曲は勉強したいと思っています。しばらくの間、そのことを考えてきたから」

―― プログラムは異なる作品の、美しい組み合わせになるのでしょうね。

「ああ、そうだね」

《休業期間を明けて、新たなる心境へ》
 ピョートル・アンデルシェフスキは1年半の休業期間を明けて、2012年11月、ブロムシュテット指揮バンベルク交響楽団との共演で演奏活動を再開した。ドイツでのコンサートに続き、日本ツアーに同行して、6日東京、7日松戸、11日兵庫で、モーツァルトのト長調協奏曲K.453を演奏した。
 
  2年前から具体的に決めていた今回のブレイクを、アンデルシェフスキはなんのプロジェクトももたずに、まったくの白紙として生きることにしていた。そして、彼はそのプランを実行し、京都の禅寺で瞑想の修業も行うなど、自由や空白と向き合う時間を過ごした。その結果について一昨年の秋にたずねると、「休んだことがうまくいったのかどうかわからない」と答えた。

 「大半はピアノにはまったく触れなかった。朝目覚めて、人生において初めて計画や目標なくすごした。もちろん自由にすることはたやすいことではなく、いったいなにをしたいのか、自分のしたいことが義務感なしに存在するのか考えることもあった。ただ少なくとも、以前よりもこの瞬間をずっと楽しむことができた、私がここに存在するというだけの理由しかなくとも。いまという時間を、そのままに触れ、そしてこの瞬間を味わうことができるようになったと思う」。

 現在という時間を味わい、その時間を精いっぱい受けとめることは、音楽に臨むときにも生きてくるとは思いませんか?
「そうだといいと思うけれど、いまはわからない。それを答えるには、まだ早い気がする。ただ、人生をシンプルに楽しみ、この瞬間になんであれ経験することを味わうようにはなった」。
 というのが2012年秋の話。それからさらに時が経ち、そのブレイク明けから2年弱がめぐって、アンデルシェフスキはどう心境の変化を実感しているのだろう?
                    
―― 休業期間が明けて、もう2年近くになろうとするところですが、あれ以降なにか変化のようなものを感じていますか?

「最初の頃は、すごく困難で、すごく強烈だった」

―― ピアノを演奏するように自分に強いなければならなかったわけですね?

「そう。いまはどうにか前より強くなったと言えると思う」

―― どういう意味で?  タフになったとか……揺るぎなくなったということ?

「いや、揺るぎなくなったということではなくて……、だが、うーん、どのように強くなったと感じるかって? 私はただ……たぶんちょっとだけシリアスでなくなったような気がする、言葉の最良の意味でね」

―― それは、つまり……

「物事をこれまでよりシリアスではなく感じるようになった」

―― そのことで、あなたは自由になった?

「ええ……それにもっとありがたみがわかるようになったのかも知れない、自分がしたいことをしているのはとてもラッキーなことだって。ちがうかな? ある意味ではそうだ」

―― プロジェクトということではなくて、自然な気持ちや愛着で答えてほしいのですが、次にはどんな作品がレパートリーに入ってきそうですか?

「ああ、それはとても自然発生的なものだ。とても自発的で、予期できない。そして、新しい作品を学ぶのに私はとても時間がかかる……ゆっくりと学ぶから、自分の多くをもっていかれる。いま私にとって最新の作品は「イギリス組曲」第1番ということになるけれど、それはほんとうに私の全身全霊のエナジーを注ぎ込まなくてはならなかった。私の全存在がこの作品に注ぎ込まれたんだ。私にとって作品が自分自身になるとは、それほどにシリアスな問題なんだよ」

―― あなた自身を侵略するわけですね?

「そう。侵略してくる」

―― 侵略があるならば、なんらかの癒しが一方で必要でしょう……その間で、うまくバランスをとらなくてはいけない……

「そう。自分自身を侵略されるままにする必要があるわけで、それはとにかく暴力的なことだから……」

―― だけど、バッハの音楽に強いエゴを見出すのは難しいですよね?

「ああ、難しいね」

―― つまり、ベートーヴェンではそうした他者の侵入は合理的に思えるけれど、バッハの場合だと宇宙に侵略されるわけだから、まったく事情は異なるでしょう?

「ええ……」

―― ある意味、世界のすべてという話だから……

「そう、だから、自分がなにに侵略されるかを、バッハでは選ぶことができる」

―― シューマンについては、シューマンはシューマン自身に他ならない、けれどバッハにおいてはいったい誰がバッハなのでしょう?  彼自身をつかみとることは非常に難しいのでは。

「なるほど……私がこうした葛藤を抱かない作曲家はモーツァルトだけだな」

―― つまり、どういう?

「モーツァルトは唯一の作曲家だと思う、つまるところ意味をなす……(笑)」

―― シューマンは違う?

「違うよ!」

―― しかし、シューマンのいくつかの作品は……

「シューマンのいくつかの作品はそうだけど、でもモーツァルトのようではない。モーツァルトはちゃんと意味をなす、この言葉のあらゆる意味でね」

―― モーツァルト作品の多義性についてはどう思います?

「ああ、多義性でいっぱいだ。モーツァルトでは多義性、それから不条理の感覚がすべてだ。しかし、道理に合わない感覚だけでなく、同時に、最高次の理想主義がある。だから、その意味では私が知るもっとも葛藤の強い闘争的な作曲家でもある」

―― 劇場的で、オペラ的で。

「そう、それも」

―― だから、モーツァルトではあなたはたくさんの役割を演じることになる。

「うん、そうだね」

―― ということは、俳優みたいな感じもあります? 演出家、俳優、どんなふうに自分自身を感じるのか。台本はあります。では、モーツァルトの音楽を演奏するときに、どんなことを感じますか?

「うーん……どう言ったらいいか。俳優、演出家、すべてについて語ることはできるけれど、私が思うに重要なのは、すべてが一体となって意味をなすということ。喜劇や悲劇、極度の悲しみや溢れる喜びがあり、究極的にはこうしたすべてがある種のハーモニーをもつ。だから、不条理であり、また理想主義的であると言ったんだよ」

―― それにしても、極端に過ぎませんか?

「非常に極端だと思うよ、けれど彼はそれをなんとか受容している」

―― それがあなたの言うフレームというもの?

「そう……モーツァルトは奇跡のようなものだと思う」

―― モーツァルトは小さな子どもの頃からあなたの親しい友だちでした?

「ええ」

―― その関係や理解は、ずっと変わらずにあるもの?

「変わってきたよ、決まってもっと深くなる。だけど、どうして私たちはモーツァルトの話をしてるんだろう(笑)」

―― ああ、モーツァルトのことは、いまは忘れましょう(笑)。


《この十数年の変化をめぐって》

―― パルティータ集のCDがここにありますが、10年ほど前の彼、ピョートル・アンデルシェフスキについてどう思いますか?

「髪型が違う(笑)」

―― ですね。

「このアルバムを録音したときのことをはっきり思い出すなら、スイスで3月に録音されたもので……」

―― 2001年の3月?

「そう。私はひどく病んでいて、咽喉炎を患っていた。それから、いろいろな面で大きく変わってきたけれど、このCDについて考えると自分はあまり変化していないと思うな」

―― 過去の自分の録音を聴いたりするのですか?

「いや」

―― 決して聴かない?

「いや、決してってわけじゃない。でも、ほんのたまにしか聴かないね。編集にすごく時間がかかった。編集というのは非常に長くて、何か月もかかる。だから、ポスト・プロダクションに関しては、いまではだいぶ腕が上がった。けれど、このアルバムはもうずっと聴いていないから、どんな音がするのかもわからない」

―― 良い出来だと思いますよ。

「いいと思う? ほんとうに?」

―― 素晴らしいですよ。いまとは違う演奏ですが。

「じゃあ、こんど聴いてみるべきだな」

―― それに、カーネギーホールの「パルティータ」第2番はやはり凄いですよ。

「ほんとうに? パルティータのアルバムは長く聴いていないけれど、イギリス組曲の新しいCDはだいぶ違ったものになると思うよ。きみがそんなにも入れ込むことにはならないかも知れない(笑)。だけど、パルティータという作品は非常に異なっていて、ずっとゴシック的で、もっと怒りがある」

―― 興味深いですね。それで、10年前のご自身についてはどう思います?

「10年前の自分をどう思うかって?  まだとても若くて、もちろんとても若いってわけではなかったけれど、そう感じていてね……大きな変化だと思うのは、自分には時間があって、すべての未来が自分の前にあると考えていた、すべてが開かれていて、まだたくさんの可能性があると感じていた。それから、自分がかなり若かった頃にはあらゆる可能性があったんだ、いまだって同じだ、と感じる瞬間がやってきて、でもそれはたちまちに去ってしまう(笑)。だから、可能性なんて理論上のものでしかないのだけれど、でも……」

―― でも、あなたにはまだ膨大な可能性がある……

「ええ、でも当時よりは少ないよね」

―― ほんとうに? そうは思わないけどな。

「もちろんそうさ! 年をとったんだから」

―― それはそうだけど……

「だから、十年前の彼について言うなら、未来にもっと多くをみていたんじゃないかな。そして、今日では私はもっと現在にいるのだろう」

―― 過去ではなくね。

「過去なんて! 私は過去なんて好きじゃない。現在が好きだ、未来でもなく」

―― では、そのあなたの現在を聴きに、リサイタルでお会いしましょう。

「だね! ありがとう」
                                    取材・文 青澤隆明

祝!芥川賞受賞!



2005年、太宰治賞でデビューした津村記久子さんが、この度、「ポトスライムの舟」(「群像」)で第140回芥川賞を受賞されました。そこで、デビューから今日まで、どういう思いで、どういうペースで小説を書きつがれてきたのか、聞いてみました。

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――先日、デビュー作の『君は永遠にそいつらより若い』を重版しましたが、あらためて読んでみてどうでしたか? 結局とくに直さずそのまま重版ということになりましたが。
あれはあれで、あの緩さとか細かさでいいなって思ったので。『太宰賞2005』から単行本にする段階で、高井有一先生に、ここしょうもないなーって言われたところは切ったんですよ。それでまあいいかなと。

――温水ゆかりさんが「PR誌ちくま」の書評で、「一作ごとに進化を遂げている」と書かれていましたが、ご自分ではどうですか? 私は進化したなって思います?
うーん。でも、考えるようにはなりましたね、いろいろ。いちばんその基礎になったんが「群像」の最初の30枚(『カソウスキの行方』収録の「花婿のハムラビ法典」)です。短編を書いたことがなかったので、すっごいむずかしかったんで。それからだいぶ組み立ててやるようにはなったんです。

                    ◆

      年に2本長編を書こう、3年はがんばろうと決めていた

――太宰治賞受賞は4年前でしたよね
そうです。27のときです。

――その頃は、というか今もですが、会社に行きながら書いていたんですよね。
年に2本長編を書くって決めて、毎日書いてました。何月何日までに何枚書くとしたら、日割りにして1日に何枚やけど、でも土日を休みたかったら、何枚とか、ずーっと考えて。

――それはいつ頃から?
26からです。3年と思ってました。29までやろうと思ってて。まあ、みんな3年て言うから私も3年でというだけなんですけどね。

――それで27で受賞。早いですよね。応募は何回目だったんですか?
2回目です。最初は「小説すばる」で、それが三次選考まで残って、「1176中の12番」になったわけです。そのことをたぶんね、私、芥川賞をとったことより誇らしげに話すと思うんですけど。(笑)大学生のときに書いたものを、26のときにリライトして出したら、残ったんですよ。このときと、太宰賞の最終選考に残りましたという連絡を筑摩書房さんからもらったときが、作家生活でいちばん嬉しかったことじゃないかと思います。

――いちばんはじめに認められた瞬間ですものね。
そうです、そうです。

――でも「小説すばる」で三次選考まで残ったんだから、太宰賞はけっこう行けるかな、という気分だったでしょう?
いやーそんな気分、なかったですけど。まあ、そんなあかんことはないやろ、みたいな。ただ、一次落ちはふつうにあるやろと思ってました。……私そのあとに、年2本ということは下半期も書いていたわけで、下半期のものを別のところに応募して、一次通過しませんでしたよ。

――え? ほんとうに?
なんやこれって思って。それが7月くらい。

――はじめて知りました。それって応募したのはいつですか?
太宰賞の最終選考に残った頃ですね。残ったといってもそんな、入賞することもないやろ、ということもあったし。だからやっぱり出しとこ、と思って。

――受賞が決まったのが5月で、授賞式が6月で、そして7月に一次選考に落ちた。(笑)
たぶんそのショックで、なんかなんにも書いてなかったのかもしれません。賞をとってからは、とくに仕事のない時期が続いてて。

                    ◆

          仕事が来た! それもまず「群像」から

――編集者だってまず作品を読まなきゃいけないし、すぐのご連絡はちょっと。
7月8月とかずっと、なんも仕事なくて、頼まれるままに大学のエッセイとか書いていて。で、9月に「群像」がエッセイ書きませんって言ってきはって。うわーうそー、来たー、うそやでーって。「群像」ですからね、講談社の。

――ほかにありません。(笑)
えらいびっくりしました。そこからバタバタ仕事をもらい始めるんですよ。ぜんぶ覚えてるんです。10月に上京して営業旅行に行って……といっても、筑摩書房さんと講談社さんに行くだけなんですけどね。そこで「群像」で短編書きませんかってなった。仕事やーって思って。で、12月の頭ぐらいに「小説すばる」からインタビューを受けて、そのちょっと後ぐらいに筑摩さんからウェブの連載しませんかって来た。すごいすごい、仕事やーって。それからもうちょっとしてからまた「小説すばる」から小説書きませんかって言われて。もうそれでいいと思ってました。

――それでいいって。(笑)あとから宿題がいっぱい来たってことじゃないですか。
なにをしてたんですかね、その最初の5、6、7、8は。12月〆切で30枚ぐらいの仕事が来てただけやったから、なんの仕事も持っていない頃に長編を書こうって思って。筑摩の担当さんも見せたら邪慳にはせえへんやろ、みたいな。で、2本書いて1本ボツでも落ちこまへんような心構えで考えたんが、『ミュージック・ブレス・ユー!!』なんです、じつを言うと。賞とっていちばん最初に考えたんがあれやったんです。

――あの作品で野間文芸新人賞を受賞。受賞インタビューでも、そう言ってましたよね。でもその頃、デビュー作の本作りがあったはずですが。
ああ、そうそう、ゲラ見てましたね。見てたけど、でもあのときの見方って、ほんとに見てたんですかっていうぐらいの感じやったですしね。ファックスも持ってなかったから、電話でやりとりして。これはどうしますか、これはどうしますか、ってずっと聞かれて、担当さん嫌になってきたんか、ファックス買ったほうがいいと思いますよって言われて。(笑)賞金で。……買いましたよ、ファックス。

――いいですねー初々しくて。
ほんま、なにしてたんやろ。

                    ◆

       長編か短編か、純文学かエンターテインメントか

――年に2本長編ということは、短編はまったく?
一回も考えたことがなかったです。だから「群像」から頼まれたとき、本を買いました。阿刀田高さんの『短編小説のレシピ』。

――泥縄ですねー。
結局読まなかったんですけどね。あとで読みました、書き終わってから。面白かったです。

――この間、「anan」のインタビューで推薦していた3冊の本はどれも短編小説集でしたよね。読むのは短編がお好きなんですか。
あれは、冬場にちょっとした時間に楽に読める本、というコンセプトで選んだので。ほんまに重い長編も好きですし、両方好きです。

――ぜったい長編!と思っていたわけではなく、たまたま短編が頭になかったと。
なかったですね。応募したい賞がエンターテインメントのものが多くて、そうすると基本的に150枚とか受け付けなくて、300枚以上とかなんですよ。だから長編になってて。松本清張賞とか600枚とかでしょ。太宰賞がいちばん中間の枚数なんです。「文學界」は100枚、「群像」は250枚、「小説すばる」は300枚からで、太宰賞は300枚。

――じゃあ太宰賞を選んでくれたのは枚数の問題なんですね。(笑
枚数もありますし、なんかその、ちょうど出したいときに太宰賞の〆切が近かったというのがあって、ああ筑摩やと思って出した、というか。いまでも、新人賞の広告見ますよ。ここいいなあ、とか。

――もう応募できないですよ。
ねえ。でもなんかあったらこまるし。さすがにね、ここのところ見なくなりましたが、見なくなったのは去年ぐらいからですよ。仕事いつなくなるかわからへんし。そしたらまた、応募するしかないじゃないですか。新人からやりなおし、かなあと。いろいろと控えてましたよ、リストに、鮎川哲也賞は何枚、とか。(笑)

――最初が「小説すばる」ですし、純文学よりもエンタメのイメージだったんですね。
それこそ、そんな深遠なテーマを持っていないので。エンタメのほうが読むのも好きですし。というか、そういうジャンル分けがあることすら、あんまり考えたことがなかったです。海外文学ばっかり読んでたから。SFかミステリーかみたいなのは分かるんですけど、あと、白水uブックスとか読んでました。ああいうのがいったいどういうものかわからんと、ただ小説として読んでたんで。

――文芸雑誌は?
読んでなかったです。途中で終わるしなあと思って。連載は買いつづけんとだめですからね。

――でも「芥川賞」。純文のど真ん中になっちゃいましたね。
びっくりですよね。でもまあ、いただく仕事全部が純文というわけではないですからね。純文とエンタメと、だいたい交互ぐらいに来ているんですよ。

――そのことは別に、ご自分のなかでは矛盾なく? 雑誌によって書くものは変えてるんですか?
ある程度変えますけど、雑誌と言うより、編集者さんによって変えてますね。たとえば「野性時代」の担当さんとかだったら、男の人だから、男の子の話を書いたときに、この人のところで通ったら、まあ大丈夫やろ、そんなに嘘くさいわけでもないやろ、変やったら訂正してくれるやろし、とか。

                    ◆

           ちょっと笑える部分は入れたい

――この担当さんだったら、ちょっとエンタメに近いものにしようとか、そんなふうにも考えますか?
いや、それはほぼないような。最近ほんと、なくなりましたね。「カソウスキの行方」ぐらいから区別しなくなりました。しないほうがいいってなって。

――それはどうしてですか?
「十二月の窓辺」という、「ポトスライムの舟」といっしょに今度、単行本に収録される「群像」にのせた小説があって、それは私は純文学やと思って書いた小説なんです。モラルハラスメントの話なんですけど、あまり受けんかったような気がして(笑)。

――読者に?
いや、担当さんに。その前に書いた「花婿のハムラビ法典」がなんかドタバタした話やったし、そういうので長いのを期待していたら、なんか暗ーい話が来た、みたいな感じがあって。

――でもご自分では別に、「十二月の窓辺」は暗くてあまりうまくいかなかったな、と思ったわけじゃないんでしょう。
暗いなあとはちょっと思ってましたけど。どうかなあ、失敗作だとは思わなかったけれど、好かれたいなあとは思ったんですよ。

――せっかくなら楽しんでもらいたいと。
まあべつに楽しくない小説もありますけどね、『アレグリアとは仕事はできない』に入れた「地下鉄の叙事詩」みたいな。

――あれ、面白かったじゃないですか。
二番目の人とか、だいぶ変なこと言いますからね。

――べつに、コミカルなだけが面白いということじゃありませんから。
まあねえ。ただ、ちょっと笑える部分を入れたほうがいいなあ、というのはありますね。そのほうが話としてのバランスがとれる、というのもありますし。

                    ◆

                進化してる?

――津村さんは、すこし引いた視線で書かれるから、そこから面白さが出てくるんじゃないですかね。入り込んじゃった、狭いところだけで描かれると、ものすごくシリアスになってしまうから。
ものすごく入り込んだモラハラのしんどさ、みたいなものがあったから、まあ、入り込んだしんどさでいいんですけどね。なんかやっぱり書いとかなあかん小説ではあったんですよ、「十二月の窓辺」は。いちばん怨念のあるものとして、最初の会社はあったので。

――なるほど。でもそれを経て、今はちょっと楽しいところがある小説がいいかな、というところに来た。
そういうことです。

――やっぱり、進化してるじゃないですか。
進化というか。なんていうか、商売……セールストークを覚えた、みたいな感じですよ。どっちかと言うと。

――書くということが、ただ自分の作業であるだけじゃなくて、読んでくれる相手がいるんだ、ということですよね。
そうですね。それは思いますね。

――プロというのはそういうものだ、と。
ねえ。そうだったらいいんですけどねえ。(笑)

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『君は永遠にそいつらより若い』(「マンイーター」改題)
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『アレグリアとは仕事ができない』
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