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週刊文豪怪談 連載第5回 『幸田露伴集 怪談』スタンバイ!
東 雅夫

 猛暑お見舞い申しあげます。
 毎年この時季を迎えると決まって思い出すのが、文豪・幸田露伴の名作「幻談」冒頭に登場する、次のような名調子だ。


「こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤もです。が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭の朝露、縁側の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極(ご)くいいことであります。深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳で、怖しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。」


 いかにも浴衣がけの文豪が、団扇を片手に寛いで語り始める姿を髣髴とさせるではないか。
 これはあながち私の恣意的な妄想ではない。
 この作品は昭和十三年、齢七十二歳を過ぎた露伴が、口述筆記によって起稿したものだが、担当編集者だった下村亮一の回想記『晩年の露伴』(経済往来社)によれば、その口述風景は、次のようなものだったという。


 ~~~~~~~~~~


「夏場のことだから、涼しい話でもと考えてみた。一つ思いあたったからやってみよう。日をかえてやってきたまえ」
 (略)
 八月の暑い日であったが、その日は階下の八畳の部屋に通された。その簡素な客室の床の間には、「露」の古びた掛軸が一つかかっているきりで、何一つないすがすがしいものであった。
 (略)
 露伴が床を背に、私がその前に坐り、中間に速記の机が置かれた。白絣の上布を着た露伴の前には、煙草盆が一つおかれ、翁が煙管で煙草をくゆらしながら、やおら語りはじめた。眼は射るように私を見つめ、まさに爛々として輝いている。これこそ露伴のいう青眼の対面というやつである。
 はなしは巧みな講釈師よりも、まだまだ巧みなもので、何の淀みもなくつづけられ、一時間以上が、またたく間にすぎた。内容は「釣」を主題にしたものだが、今まで全く類をみない、未知の世界の、しかも立派な小説である。


 ~~~~~~~~~~


 こうして完成したのが、露伴怪談の白鳥の歌ともいうべき名品「幻談」なのであった。
 そもそも露伴と怪談との関わりは古く、デビュー直後の明治二十三年(一八九〇)に発表された短篇「縁外縁」こと「対髑髏」にまで遡る。
 私見によれば、実はこの「対髑髏」こそ、近代日本で最初に登場した本格的な怪談文芸作品なのである。


 明治を代表する文豪の一人にして、近代日本における怪談文芸の開祖と呼んでも過言ではない巨人・露伴――本来なら「文豪怪談傑作選」の筆頭に持ってきてもおかしくない存在なのに、その登場が今回の第15巻目まで遅れていたのには、然るべき理由がある。













『幸田露伴集 怪談 文豪怪談傑作選』 8月9日発売!


 その荘重にして格調高き……現代の読者にとってはいささか格調が高すぎる(!?)文体の問題である。和漢にわたる博識の持ち主であった露伴の文章には、漢籍仏典などからの引用が、地の文に融け込む形で頻出している。往時はまだしも、漢文教育が等閑に付されて久しい戦後世代の読者にとっては、難解な漢語だらけの字面を一瞥しただけで、敬して遠ざけたくなるのは人情というものだろう。


 とはいえ難解なのは見かけだけで、いったんその懐に飛び込んでしまえば、「幻談」の名調子からも分かるとおり、露伴の語り口は実に流暢で、場面場面が鮮やかに浮かびあがる体(てい)のものである。漢語だの漢詩の引用など細かい点は気にせず、どんどん読み進めばよいのですよ、はっはっは……と、根が能天気な編者は毎年のように力説するのだが、対する冷静沈着な担当編集者のKさんに、「そうはいっても語注は必要ですよね。できれば漢詩の大意なども」と突っ込まれて、「また来年、考えましょうか」と腰くだけになるのが常だった。悲しきかな、編者の貧しき漢文の素養では、註釈を施すなど及びもつかぬことは目に見えていたからである。


 それが今年、ついに実現の運びとなったのは、頼もしい助っ人を得たからだ。
 小説家であり、近年は『ひとり百物語』連作など怪談実話の分野でも大活躍されている立原透耶さんに、本巻の註釈作業を監修していただけることになったのである。













立原透耶さんの新刊。好評発売中!
 詳細情報はこちら▼

 実は立原さんの本業(裏稼業!?)は中国文学の研究者で、北海道の某大学で中国語の教鞭を執っていらっしゃる。露伴怪談集の註釈には、願ってもない適任者なのだった。
 かくして、立原さんの献身的なお力添えによって、怪談文芸の観点から露伴の小説とエッセイの代表作を一巻に集成するという未曾有の企画が実現できた。
 あとは8月9日の発売を待つばかりである。御期待ください。

















ドラマ化にともない、書店店頭でポップを展開中!

7月刊行の小菅信子・著『14歳からの靖国問題』(ちくまプリマー新書142)の
本文に誤りがありました。

5210行目

誤)一八八九(明治二二)年、明治天皇の誕生日(紀元節)に
正)一八八九(明治二二)年、神武天皇が即位したとされる日(紀元節)に

83頁11行目
誤)当時のイギリス皇太子(のちのイギリス国王ジョージ六世)
正)当時のイギリス皇太子(のちのイギリス国王エドワード八世)

著者・読者の皆様にお詫びするとともに訂正いたします。

 目黒区駒場――東京大学のキャンパスにも程近い閑静な住宅街にひろがる駒場公園の一隅に、日本近代文学館が開館したのは、一九六七年のこと。散佚が危惧される近代文学関連の資料を蒐集保存する本格的な文学ミュージアムとして、文壇や学界、マスコミ関係の支援を受けて維持運営され、現在に至る。
 日本の近代文学方面の研究や出版に携わる人間にとっては、まことに頼もしい施設であり、私も以前から折にふれ、何かとお世話になってきた。
 とりわけ芥川龍之介については、学研M文庫版『伝奇ノ匣3 芥川龍之介 妖怪文学館』や『幽』第十号の「怪談マニア龍之介」特集、そして今回の『文豪怪談傑作選 芥川龍之介集 妖婆』と、同館所蔵の「芥川文庫」を大いに活用させていただいているのだ。


「芥川文庫」は、芥川家から寄贈された龍之介の遺品――草稿や書簡、画幅、そして旧蔵書二千六百余点から成る。
 名高き「河童図」の数々や、一眼怪、唐傘お化け、のっぺらぽうなどを描いた「化物帖」なども愉しいが、怪談文芸ファンにとって、なにより貴重かつ圧巻なのが、旧蔵書の三分の一強にあたる八百冊余の洋書中に含まれる、欧米の怪奇幻想文学関連書目である。
 W・ベックフォードの『ヴァテック』、M・G・ルイスの『マンク』、M・シェリーの『フランケンシュタイン』、B・ストーカーの『ドラキュラ』……英国ゴシック・ロマンスの歴史に燦然と輝く伝奇と怪異の名作群がある。
 アルジャノン・ブラックウッドの『空家』『耳かたむける人』『ジョン・サイレンス』『迷いの谷』、M・R・ジェイムズの『考古家の怪談集』正続二巻と『痩せこけた幽霊』、F・マリオン・クロフォードの『無気味な物語』(『さまよえる幽霊』の英国版タイトル)、そして『アンブローズ・ビアス全集』……近代怪奇小説を代表する英米の大家の短篇集、作品集がある。
 ベイリング=グールドの『幽霊の書』、アンドリュー・ラングの『コック・レイン事件と常識』、W・T・ステッドの『幽霊実話集』正続二巻、ジョン・ハリスの『憑かれた屋敷と住人たち』……英国各地の幽霊伝説や心霊事件を扱った怪談実話本がある。
 そう、ここは、内外の怪談文芸に関心を寄せる人々にとっては、まさに宝庫なのだ。


 しかも、これら旧蔵書の多くには、各篇や巻末の余白に、龍之介自身による読了直後の書き込みが残されている。その内容たるや、歯に衣着せぬ直言ぞろいで実に興味深い。
 たとえばストーカーの『ドラキュラ』については「くだらん小説だ/怪談もこうなっては一向怖く/ない/鏡花以下だね 我鬼/July 27th 1920 Tabata」、『フランケンシュタイン』についても「己はこの本をよんで少しも怖くなかった そして/寧(むしろ)フランケンスタインの創造した巨人が人間/の世界に接触してゆく段どりに興味をひか/れた」などと、なかなか手厳しい。
 その一方で、ブラックウッドやM・R・ジェイムズら近代英国恐怖派の大家たちには概して好意的で、各作品の末尾に熟読をうかがわせるコメントを記している。
 たとえばブラックウッド『ジョン・サイレンス』所収の「いにしえの魔術」には、「前半はよいがhallで婆さん及(および)娘と踊る辺から先はいかん/どうも日本の猫ぢゃ猫ぢゃを思い出す」、「邪悪なる祈り」には「Satanの姿が見えるところはまずい/その外はよく書けている/但前半は冗漫なり」、『耳かたむける人』所収の「柳」には、ひと言「うまい」といった具合である。
 ちなみに、こうして培われた龍之介の泰西怪談文芸に対する造詣は、『文豪怪談傑作選 芥川龍之介集』所収の「近頃の幽霊」「英米の文学上に現われた怪異」などの談話に躍如としていることを申し添えておこう。


 龍之介のお化け好き、怪談マニアぶりが窺われて、とても面白いんですよ……という話を、「妖しき文豪怪談 芥川龍之介篇」の打ち合わせに際して、ドキュメンタリー・パートを担当するテレビマン・ユニオンのスタッフに開陳したところ、それなら近代文学館でロケをしましょう、ヒガシさん、解説お願いしますね、という話になった。
 かくして先週、折しも「芥川龍之介展」開催中の同館におじゃまし、閉館後の展示室などで長時間にわたり撮影がおこなわれた。
 まさか自分が近代文学館で、テレビカメラを前にして、龍之介と怪談について語ることになるとは、世の中は分からないものであることよ。
 上記の泰西怪談本や龍之介自身の書き込みについても、番組内で紹介されることと思うので、御期待いただきたいと思う。













日本近代文学館での撮影風景。
このあとアシスタントの女子が座っている席で、
芥川と怪談についてのインタビューを受けました


東雅夫(ひがし・まさお)
1958年神奈川県生まれ。アンソロジスト、文芸評論家。元「幻想文学」編集長、現「幽」編集長。著書に『遠野物語と怪談の時代』『怪談文芸ハンドブック』、編著に『文豪てのひら怪談』など
http://blog.bk1.jp/genyo/







<週刊文豪怪談 バックナンバー>
第1回  「妖しき文豪怪談」放映決定!(07.01更新) 記事はこちら▼
第2回  『芥川龍之介集』まもなく発売!(07.08更新) 記事はこちら▼
第3回 落合正幸監督と「片腕」を語る(07.15更新) 記事はこちら▼

第155回新宿セミナー@Kinokuniya
あなたの想いが言葉になる!伝わる!
コミュニケーション力・表現力養成ワークショップ
「想いを伝えるチカラ」
講師: 山田ズーニー


「言いたいことが自分の言葉で表現できる!」 「伝わる!」 「楽しい!」と、
全国で大評判のワークショップ、待望の開催です!
楽しいワークをやりながら「コミュニケーション力・自己表現力」が身につきます。
内気な人も、コミュニケーションが苦手な人も、安心して参加できます。
「もっと自分らしい表現力」「もっと相手に伝わる言葉力」をここで体得し、
大切な人と通じ合ってください。「あなたには人と通じ合うチカラがある!」

お客様参加型のワークショップです。お客様全員に、実際にコミュニケーションレッスンを
体験していただきます。当日、入場時に座席を指定させていただきます。お連れ様同志が、
別々の席になってしまうこと、また、前方をご指定などのご要望には添えません。
あらかじめご了承くださいませ。開始1時間以上たってお越しいただいた場合、ワークに
はいれない場合もございます。途中退出はご遠慮くださるようおねがいします。
(ワークショップ開催のため、高校生以上を対象とさせていただきます。)

日時: 2010年7月26日(月) 18:30開演(18:00開場)
会場: 新宿・紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店新宿本店4F)
料金: 1,000円(税込)
前売: キノチケットカウンター(紀伊國屋書店新宿本店5階 受付時間10:00~18:30)
電話予約: 紀伊國屋ホール 03-3354-0141(受付時間10:00~18:30)
主催: 紀伊國屋書店
協力: 筑摩書房
《6月30日(水)より、チケット発売・電話予約受付》

『新人諸君、半年黙って仕事せよ』 詳細













『あなたの話はなぜ「通じない」のか 』 詳細


 2010年7月刊のちくま新書、鈴木亘『年金は本当にもらえるのか?』の一部がこちらで読むことができます。

 本書は、年金に関する疑問に答える形式をとっており、以下に、Q1「とかく複雑で難しいという印象がある年金制度ですが、私のようなまったくの「シロウト」でも理解できるのでしょうか?」を掲載いたしましたので、ご覧いただければと思います。



Q1 とかく複雑で難しいという印象がある年金制度ですが、私のようなまったくの「シロウト」でも理解できるでしょうか?


†「シロウト」でも十分理解できます
 はい、もちろん大丈夫です。年金制度の本質や問題点を理解すること自体は、実は意外に簡単なことで、私は、小中学生でも十分に可能だと思っています。この本をゆるゆるとナナメ読みする程度でも、あなたは日本の年金制度について、日頃、新聞や雑誌をにぎわしている記事をスラスラと読むことができるようになるでしょう。また、わが国の年金制度をどのように改革すべきなのか、政府の提示する改革案をどう評価すべきかという点についても、テレビやラジオに出てくる「評論家」「専門家」とだいたい同レベルの議論が可能になるはずです。つまり、本当はそれぐらい容易なことなのです。
 しかしながら、確かに現在、ほとんどの国民が、年金制度はとても複雑で難しい、とても自分には理解できる代物ではないと感じているようです。将来の年金に大きな不安を感じつつも、結局は官僚や専門家といった「クロウト」に任せるしかないと思いこんでいる人が多いのです。なぜなのでしょうか。


†年金制度が難しく複雑に感じられる理由
 まず第一に、わが国の年金制度は、職業別に分かれており、運営方法や仕組みもバラバラで、すっきりと整理されていません。たとえば、自営業とサラリーマンで、支払う保険料額も異なれば、受け取る年金額も異なります。また、なぜかサラリーマン家庭の専業主婦は、まったく保険料を支払わずに年金を受け取ることができます。そのほか、生まれ年によって年金額が異なったり、付加的な年金や加算が世代によってあったりなかったりするなど、矛盾や例外に満ち、とにかく複雑な印象を与える制度になっています。
 第二に、制度がコロコロと短期間に変わりすぎます。そのため、かつて年金制度を勉強したという人も、最新の制度がどうなっているのか、すぐに分からなくなってしまいます。また、改革によって制度変更が適用される人と適用されない人がいるなど、複数の制度が並存して複雑です。
 第三に、わが国の年金制度には専門用語が多く、また言葉が難しすぎます。新聞や雑誌に書かれている記事をちょっと読もうとしてみても、すぐに、「マクロ経済スライド」、「所得代替率」、「有限均衡方式」等、何やら難しそうな専門用語が立ちはだかります。
 第四に、マスコミによって、年金問題・年金改革に対する意見が異なり、180度違うこともしばしばです。たとえば、「国民年金の未納者が4割に上っており、年金制度は空洞化して危機に瀕している」という論調の新聞もあれば、「未納率がいくら高くても、将来、本人が年金をもらえなくなるだけなので年金財政には影響せず、現状制度のままで問題ない」と書く雑誌もあります。マスコミに出てくる専門家の間でも、「年金は近い将来破綻する」という人がいるかと思えば、「年金財政は絶対に破綻しないので安心だ」と唱える人もいます。
 いったい、国民は誰を信じればよいのでしょうか。厚生労働省の官僚や政治家も、旧社会保険庁のスキャンダルや年金記録問題の対応振りから分かる通り、自分に都合の悪いことは隠蔽し、「大本営発表」並みの情報操作を行なうので、もはや信頼できる存在とはいえません。こうしたことが重なって、国民の間に、年金制度はとても「シロウト」が理解できる問題ではないという雰囲気が醸成されているのでしょう。


†制度がコロコロ変わる背景
 さて、本書では、このように複雑に見える年金制度について、18個のQ&Aを通じながらわかりやすく解説してゆくつもりですが、ここではまず、どうして日本の年金制度がこのように「シロウト」が近づき難いものになってしまったのか、その「背景」にあるものを考えてみましょう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではありませんが、正体(背景)が分かってしまえば、それまで恐れていた物事も案外、大したことではないことが分かります。このうち、年金制度が職業別にバラバラで整理されていない点については、次のQ2で詳しく触れますので、まずは、制度が頻繁に変わる背景について説明します。
 わが国の年金制度がコロコロ変わるのは、一言で言って、頻繁に改革が必要になるからです。ではなぜ、頻繁に改革が必要となるかといえば、わが国の年金財政(保険料や税の収入と、受給者に支払う年金額の支出のバランス)が近年、予想を上回るペースで悪化の一途を辿っているからです。わが国の年金制度は、2004年の前回の年金改正まで、5年に1度、財政状況のチェックを行い(これを「財政再計算」と呼びます)、そのチェックで年金財政が将来維持できないことが分かれば、直ちに年金改革を行なわなければならないという法律となっていました。
 年金財政は、Q6で詳しく説明する通り、経済情勢が予想外に悪化したり、少子高齢化が予想以上に進展したりすると、将来まで制度を維持することが困難になります。そして、バブル崩壊以降のこの「失われた20年」余り、常に経済情勢は予想以上に悪化し、少子高齢化も厚生労働省の甘い見通しを裏切って進展し続けました。
このため、5年に1度、国民に大きな負担を強いる年金改革を実施し続けなければなりませんでしたが、毎回、一本調子で保険料引上げばかりを行っていては、マスコミや国民の逆鱗に触れてしまいます。そこで、近年の改革では、年金の支給開始年齢(年金を受け取り始める年齢)を60歳から65歳に引上げていったり(1994年、2000年の年金改正)、年金の給付額をカットしたり(2000年、2004年の年金改正)、保険料の代わりに国庫負担(つまり将来の税金のこと)を引上げたり(2004年の年金改正)、今ある積立金を早期に取り崩したり(2004年の年金改正)と、改革手段の種類を増やしてきました。これらはすべて国民にこれまで以上に負担を強いる改革です。改革手段の種類は多いものの、本質的には皆同じことなのです。
 なぜならば、年金財政を建て直すということは、年金財政の赤字を解消するということですが、赤字というのは要するに、収入よりも支出が多いという状態です。年金財政にとっての収入は保険料と税金です。一方、支出は、現在の年金受給者に支払う年金給付額です。赤字を減らすためには、まず、収入を増やせばよいわけですから、保険料を引上げたり、税金投入額を増やしたり、将来のための虎の子の積立金を取り崩してしまえばよいことになります。赤字を減らすもう一つの方法は、支出を減らすということですから、給付カットをしたり、支給開始年齢を引上げて、給付する対象を絞ればよいのです。
 実は、これだけ多くの改革手段がとられた背景には、その必要性もさることながら、国民の批判を和らげるために、様々な変化球で国民の目先を変えるという意図が大きかったものと思われます。そして、まさに厚生労働省の官僚たちの意図通り、国民の多くはその複雑さに思考停止となり、あまり大きな反対をしなかったのです。
 また、もう一つ複雑な印象を与えるのは、改革が行なわれると、制度変更が適用される人とそうでない人が分かれるということです。一般に、改革前に既に年金受給者であった人は、改革で不利益が生じないように、改革後の制度が適用されないことが多いようです。もしくは、不利益にならないように、補償措置や激変緩和措置が取られます。このため、生まれ年によって適用されている制度が異なったり、例外措置が生じることになります。これまでたくさんの改革が行われていますから、それだけ多くの制度が生まれ年ごとに異なって並立していることになり、例外だらけで大変複雑な印象となります。
 しかしながら、あなたが社会保険労務士や社会福祉士の国家資格でも取ろうと思わない限り、こんな複雑な例外規定をいちいち覚える必要はありません。自分の世代が適用されている制度だけを覚えて、自分より年上の世代に対しては「改革が少なかったから得な制度がいろいろ残っていていいな」、自分より年下の世代に対しては「改革が多いから損な制度に変わっていて大変だな」と思えば、それでまず困ることはないでしょう。


†難解な専門用語が乱発される背景
 次に、高度で難解な専門用語が乱発される背景を考えましょう。実は年金制度や年金改革がこれほど難しく専門用語で彩られるようになったのは、ごく最近のことと言ってよいでしょう。日本の年金制度は5年に1度改革を行ってきましたが、ここ3回、つまり15年ほどの間に急激に複雑怪奇なものなってきました。
特に、前回の改正である2004年改正は余りにひどく、「マクロ経済スライド」、「有限均衡方式」といった名前からでは内容がまったく想像できない仕組みが数多く新設されました。Q13で詳しく説明するように、実態からみると「マクロ経済スライド」は単なる「給付カット」と呼ぶべきものですし、「有限均衡方式」は「積立金の早期取り崩し」に他なりません。
 しかし、「給付カット」や「積立金の早期取り崩し」などと不用意に易しい言葉を使ってしまっては、マスコミや国民が大騒ぎをし、ひょっとすると2004年の金改正法案は廃案に追い込まれたかもしれません。実際、2割の給付カットをそのまま表現してしまった1999年の年金改正法案は大反対にあって、法案通過が1年近くも延びて、2000年にようやく法案が成立するという混乱ぶりでした。このため、これに懲りた厚生労働省の官僚たちが、不必要に制度を複雑化し、反対が出そうな改革には、マスコミや国民が関心を持たないように難しい言葉で「武装」するようになったのです。
 また、厚生労働省の官僚たちは、2004年改正で、「このマクロ経済スライドという仕組みを導入すれば、年金財政は自動的に安定するので、法律に定められた5年の1度の年金改革が必要なくなりますよ」と、年金のシロウトである旧与党の政治家たちを説いてまわり、5年に1度の改革を義務化していた法律文を削除してしまいました。Q13で説明するように、このマクロ経済スライドが年金財政の自動安定化装置であることなど真っ赤な嘘であることが後に判明しますが、後の祭りです。
 そして、現在、年金財政は再び維持不可能な状態にありますが(Q6)、年金財政をこまめに建て直すという法律がなくなったため、年金財政の改革は先送りされ、今後長期間にわたって問題を放置し続けることが可能となってしまいました。
 厚生労働省の官僚たちにしてみれば、5年ごとに国民に負担を強いる年金改革を実行することは、大変な苦難・ストレスでしょうから、改革を義務化している法律を削除することは、長年の悲願であったことでしょう。しかしながら、それは年金制度を将来まで維持し、子孫に安易な負担先送りをさせないために、いわば必要不可欠の法律だったのです。
 国民は、不必要に難解な専門用語のために、官僚たちに「まんまとしてやられた」というわけです。いつまでもシロウトの立場に甘んじている国民は、こうして知らず知らずの間に不利益を被るのです。今からでも遅くありません。本書で年金制度、年金問題の知識を身につけ、国民の側も「武装」しようではありませんか。

『年金は本当にもらえるのか?』
鈴木亘・著

 落合正幸監督のドラマ「片腕」を、ひと足早く、拝見した。
 『ダ・ヴィンチ』来月号で「妖しき文豪怪談」のミニ特集が組まれることになり、そのメイン企画として、落合監督と私の対談が急遽、収録されることになったのである。
 これは何としても、監督とお目にかかる前に実際の映像を観ておきたいと思い、浜野高宏プロデューサーに無理を云って、まだ編集段階の映像を特別に拝見させていただいたのだ。


 いやあ……驚いた!
 ヒロイン(の本体!?)というべき「片腕を貸す娘」を、『仮面ライダー響鬼』の妖姫役このかた、ずっと注目している若手女優の芦名星さんが演じていることに、まずびっくり。
 このほど急逝されたつかこうへい氏の芝居でもおなじみの実力派俳優・平田満さんが、片腕(の造形物)を相手に、一種の独り芝居ともいうべき大熱演を繰りひろげていることにも、大いに驚かされた。
 しかしながら、なによりも驚歎させられたのは、落合監督が呆気にとられるほど正攻法で、この稀有なる幻想文芸作品の映像化に取り組まれていたことだった。












芦名星さん(片腕より)

 もとより編集段階での映像であるし、事前に妙な先入観を与えて視聴者の興を削ぐことは厳に慎むべきであろうから、作品自体の話は「本篇をお愉しみに」ということにさせていただきたいのだが、ひとつだけ触れておきたいことがある。
 落合監督とは初対面だったが、対談前の顔合わせの席で、監督から「ヒガシさんは何年のお生まれですか?」と問われて「一九五八年、昭和三十三年ですね」と答えると、なんと落合監督も同い年だという。


 そこでピンときたことがある。
 落合版「片腕」の映像世界に横溢する、ミッド・センチュリーの時代色だ。
 特撮ファン向けに換言すれば、かの「ウルトラQ」や「アウターリミッツ」と共通する怖ろしくも懐かしきアンバランス・ゾーンのテイスト、といってもよかろう。
 聞けば、監督は小学生時代に観た「アウターリミッツ」(日本での初放映は一九六四年)に強烈な印象を植えつけられたといい、私もまた「ウルトラQ」(一九六六年放映)の開始時には、一時間も前からテレビの前に正座して、今や遅しと待ちかまえていたものだ。
 ひるがえって鑑みるに、川端康成が「片腕」を「新潮」に連載していたのは、一九六三年八月から翌年一月にかけて……まさしく「アウターリミッツ」や「ウルトラQ」の映像世界と、妖しい濃霧に鎖された「片腕」の作品世界とは地続きなのであった。

 これはまことに心愉しい「発見」でもあった。
 ちょいと私事にわたるけれども、特撮映画ファンとしての自分と怪奇幻想文学ファンとしての自分の原体験が「地続き」であるという感覚が、かねてより私の中にはある。
 小学校中学年で「ウルトラQ」や東宝・大映の特撮映画に魅了され、小学校高学年で『怪奇小説傑作集』や『暗黒のメルヘン』をはじめとする名作アンソロジーに接して、怪奇幻想文学の世界へ誘われ……という道筋である。
 その境界領域に、かの大伴昌司をはじめとする「導師」が介在したことを知るのは、ずっと後年のことなのだが、それと自覚せずとも、自分が惹かれる文学と映像という二つの世界に、ただならぬ共通性が潜んでいるという予感めいたものは常にあった。

 その意味で今回、落合監督が、私の編纂した『文豪怪談傑作選 川端康成集』をお読みになって「片腕」と出逢い、従来の川端像とはまったく異なる文豪の怪美な一面に大変な衝撃を受けて、その映像化を思い立ち、それがひとつの大きな契機となって「妖しき文豪怪談」というプロジェクトが具体化し……という流れには、かつての自分自身の原体験を、あたかもさかのぼって追体験させられるかのような驚きを感じざるをえないのであった。
 今回みずから「片腕」の脚本化にも取り組まれた落合監督のお話には、他にもいろいろとハタと膝を打ちたくなるくだりがあって、とても刺戟的なひとときを過ごさせていただくことができた。
 詳しくは、来月上旬発売の『ダ・ヴィンチ』九月号に御注目ください。












右は落合監督

 発売といえば、先週末に無事発売となった『文豪怪談傑作選 芥川龍之介集 妖婆』――「怪談」という視点ならではの珍しい珠玉作なども、ここぞとばかり収録しているので、こちらもひと足先に御注目いただければ幸いである。
 ちなみに「妖しき文豪怪談」の芥川龍之介篇では、ドキュメンタリー・パートで、駒場の日本近代文学館に収蔵されている龍之介のお化け絵や旧蔵書、とりわけ怪奇幻想文学方面のそれなどを、不肖ワタクシが案内役となって御紹介することになっている。
 これまた、国民的文豪の「もうひとつの顔」を浮かび上がらせる試みであり、そこから落合監督と「片腕」のような出逢いがどこかで生まれて、新たな文芸や映像作品が誕生する萌芽となれば、何よりなのだけれど。

東雅夫(ひがし・まさお)
1958年神奈川県生まれ。アンソロジスト、文芸評論家。元「幻想文学」編集長、現「幽」編集長。著書に『遠野物語と怪談の時代』『怪談文芸ハンドブック』、編著に『文豪てのひら怪談』など
http://blog.bk1.jp/genyo/







<週刊文豪怪談 バックナンバー>
連載第1回  「妖しき文豪怪談」放映決定!(07.01更新) 記事はこちら▼
連載第2回  『芥川龍之介集』まもなく発売!(07.08更新) 記事はこちら▼

ちくま文庫『世界がわかる宗教社会学入門』をテキストに、もう一歩踏み込みます!


●講座名:
東京工業大学・世界文明センター 連続講座 2010夏
「世界がわかる宗教社会学入門」


●講師:橋爪大三郎
宗教がわからなければ、世界はわからない。しかし宗教は、わかりにくい。
キリスト教、イスラム教、仏教、儒教、神道など、世界の主要な宗教の
発想や仕組みを、社会学の視点で解きあかします。


『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)をテキストに、
もう一歩踏み込んだ内容の講義です。


以下の三つのプログラムは、完結した内容で、どれかひとつを聴講すれば、
世界の宗教について大筋が理解できます。三つとも聴講すれば、完璧です。


Aプログラム…一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)を重点に。
Bプログラム…仏教と儒教を重点に。
Cプログラム…日本の仏教や神道など、日本の宗教を重点に。


●日程
7月10日(土) 13時~18時  Aプロ
7月19日(月) 13時~18時  Bプロ
7月24日(土) 13時~18時  Cプロ
8月1日(日)  13時~18時  Aプロ
8月2日(月)  13時~18時  Bプロ
8月3日(火)  13時~18時  Cプロ
8月20日(金) 13時~18時  Aプロ
8月21日(土) 13時~18時  Bプロ
8月22日(日) 13時~18時  Cプロ
(Aも、BもCも3回ずつありますが、それぞれ同じ内容です)


●会場
大岡山キャンパス(会場は追って決定します。詳しくはこちら


●参加費
1回5時間5,000円 (当日、受付にご持参下さい)


●予約
必ず電話でご予約下さい。03-5734-3824(世界文明センター)



『世界がわかる宗教社会学入門』 詳細
橋爪大三郎・著

 「……いつの年も、末ちかくあらわれ」と始まるのは、怪奇幻想SFの抒情詩人レイ・ブラッドベリの名作『10月はたそがれの国』(宇野利泰訳)巻頭に置かれた印象的なエピグラフだが、われらが〈文豪怪談傑作選〉では毎年、春先になると、筑摩書房の担当Kさんが軽やかにあらわれて、小鳥のさえずりの如きハイトーン・ボイスで、こう告げる。

 「今年もまたー、文豪怪談を御準備いただく季節になりましたー」

 その瞬間、いつも思うのは、あれれ、もう一年経ったのかあ、ということ。
 ついこのあいだ、Kさんも私もヘロヘロになって、去年の巻を校了した気がするのに……まさに光陰矢の如し、である。

 最初の年を除くと、通常巻を二冊に特別篇を一冊(ただし本年は、ちょいとゆえあって通常巻のみ。その理由はいずれ更めて告知させていただきます)という布陣で臨んでいるわけだが、巻数が少ないからこそ、どんな作家をチョイスするのか、悩みは尽きない。
 そもそも、このシリーズは、当初から巻立てが決まっていたわけではないし、前年の売れ行きとか読者の皆さまからの反応などを勘案しつつ、その年のラインナップを決めるという方針で臨んでいるため、仕事はじめの作業は「今年は誰を取りあげようか」の相談となる。

 一昨年の小川未明と室生犀星のときは、私が主宰している「幻妖ブックブログ」でアンケートをおこない、特にリクエストが多かった両作家に決定したのだが、その前の柳田國男と三島由紀夫、昨年の太宰治と折口信夫については、アンソロジストの野生の勘(?)と、担当編集者のバランス感覚の鬩ぎ合いの産物である。
 それでも何となく、二人の作家の間に繋がりが生ずるのは、面白い。
 三島の巻には、柳田の『遠野物語』を称揚した「小説とは何か」と「柳田國男『遠野物語』」が収録されており、折口の巻には、太宰を追懐した「水中の友」という幽玄な一文が収められているのだ。

 さて、今年は芥川龍之介と幸田露伴という組み合わせになったわけだが、芥川については、これまでとは異なる決定の経緯があった。
 昨年の秋口、NHKで放送される番組の企画制作を担当するNHKエンタープライズの浜野高宏プロデューサーから私のもとに、折り入って相談したいことがあるのだが……という連絡をいただいた。
 浜野さんは以前、その名も『異界』と銘打つ、日本の怪談文化を海外に紹介する教養番組を制作されており、私も『幽』(いちおう日本初の怪談専門誌なのだ)の編集長として、取材に協力したことがあった。

 その御縁で声をかけてくださったのだが、聞けば、『異界』の好評を受けて、今度は「文豪と怪談」をテーマにしたシリーズ番組を企画されているというではないか。
 しかも、文豪怪談を原作とするドラマ・パートと、作家の生涯と怪談との関わりを浮き彫りにするドキュメンタリー・パートとの二本立てによる構成を勘案中だという。
 さらにさらに、ドラマ制作にあたっては、いま第一線で活躍中の映画監督たちを起用し、それぞれの個性を発揮して文豪たちの怪談世界を視覚化する、競作形式を採用するつもりであるとも……。












 この構想を聞かされた私が、内心、小躍りして歓んだことは申すまでもあるまい。
 まさに「きた、きた、きたーーーーーーーーーッ!」の心境であった。
 それと同時に、やはり内心、冷静沈着(?)なもうひとりの自分が、こう呟いたことも正直に告白しておこう。
「でもなあ、いくら天下のNHKさんとはいえ、そんなに上手く事が運ぶのかしらん……」
 浜野さん、ごめんなさい。おみそれいたしました。敏腕プロデューサーの手腕によって、依頼はとんとん拍子に進み、(当方の認識としては)あれよ、という間に、四人の監督さんと、担当される作家のラインナップが固まっていったのである。
 川端康成、太宰治、芥川龍之介、室生犀星……なかで芥川のみが〈文豪怪談傑作選〉では未刊であった。
 これには理由がある。私が前に手がけた学研M文庫版〈伝奇ノ匣〉シリーズに、『芥川龍之介 妖怪文学館』という巻が含まれていたからだ。
 とはいえ、同書はとうに品切れで再版予定もなく、昨年『幽』の10号で芥川龍之介特集を組んだときにも、読みたいのに入手できないという問い合わせをいただき、申し訳なく思っていたのである。
 学研版は「伝奇」がコンセプトだったが、今回は「怪談」に主眼を置いて、新たなセレクションで臨もうということで、今年一人目の作家は、すんなりと決定に至った。

 その『文豪怪談傑作選 芥川龍之介集 妖婆』が、今週の金曜日(7月9日)にいよいよ発売となります。ぜひとも、よろしくお願い申しあげます!


『文豪怪談傑作選 芥川龍之介集 妖婆』 詳細













東雅夫(ひがし・まさお)
1958年神奈川県生まれ。アンソロジスト、文芸評論家。元「幻想文学」編集長、現「幽」編集長。著書に『遠野物語と怪談の時代』『怪談文芸ハンドブック』、編著に『文豪てのひら怪談』など
http://blog.bk1.jp/genyo/







<週刊文豪怪談 バックナンバー>
連載第1回  「妖しき文豪怪談」放映決定!(07.01更新)

小社は、7月8日(木)~11日(日)に東京ビッグサイトで開催される、
東京国際ブックフェアに出展いたします。

会期中はすべてのアイテムを割引価格にて販売。
店頭では目にする機会が少なくなってしまった全集・シリーズもご用意して
お待ちしています。小社のブースは【2-19】です。ぜひお立ち寄りください。

◇会期  2010年7月8日(木)~11日(日)
◇時間  10:00~18:00
◇入場料 1200円(税込) 無料招待券が申し込めます→コチラカラ
◇会場  東京ビッグサイト(りんかい線・国際展示場より徒歩5分 他) アクセス

東京国際ブックフェア 詳細
小社の出展内容 詳細

昨年のレポート 詳細

週刊文豪怪談 連載第1回 「妖しき文豪怪談」放映決定!
東 雅夫

 ちくま文庫版「文豪怪談傑作選」シリーズは、二〇〇六年七月刊行の『川端康成集 片腕』を皮切りに、毎年夏場に数点ずつ、巻を重ねてきた。
 当初、刊行が決定されていたのは最初の四巻までで、それ以降は、反響と売れ行き次第で続刊も……という手探り状態のスタートだったが、さいわい、お化け好きや文豪好き(!?)な読者諸賢の御支持を得て、この夏発売される『芥川龍之介集 妖婆』と『幸田露伴集 怪談』で、総計十五冊に達するまでに成長した。過去にいろいろなアンソロジーを手がけてきた私だが、これだけ息長く続くシリーズは珍しい。











ただいま制作中

 担当編集者のKさんと私は、Kさんが前の会社にいらしたときからの知り合いで、そちらでも「江戸っ子ホラー作家・岡本綺堂」などという酔狂な雑誌特集のお手伝いをさせていただいたりしていたのだが、ちくま文庫を新規に担当されるにあたり、「何か、とっておきの企画はありませんか?」と相談を受けて、いそいそと提案したのが、「文豪」の「怪談」を蒐めた一巻本アンソロジーのプランだったのである。

 日本文学史に赫々たる功績を残した名だたる文豪たちには、実のところ、かなりの割合で「お化け好き」の士が含まれている。
 すでに本シリーズに収めた作家以外にも、夏目漱石しかり、坪内逍遙しかり、志賀直哉しかり、坂口安吾しかり……むしろ生涯に一作も、こうした傾向の作品を手がけていない作家を探すほうが難しいくらいなのだ。

 しかも、文豪たちの怪談には、達意の名作、珠玉の佳品が数多い。

「文学の極意は怪談である」という佐藤春夫の言葉(『三島由紀夫集 雛の宿』p261を参照)を引くまでもなく、ありえざる出来事を言葉のみで表現することによって、読者を震撼させたり、感興に浸らせたりすることは、容易な業ではあるまい。
 その意味で、それぞれの流儀で文学の極意を会得したことで、後に「文豪」の名を冠された作家たちが、怪談に秀でているのは理の当然であるし、それゆえにまた、作家として一度は挑戦してみたいジャンルでもあることだろう。

 その一方で、読み手の側からすれば、「怪談」という新たな視点から眺めることで、「文豪」という美名に隠れがちな作家本来の姿や意外な魅力が、再認識される面白さがあることも忘れてはなるまい。
 現に『川端康成集 片腕』や『小川未明集 幽霊船』などには、特にそうした御感想を多く頂戴している。日本人初のノーベル文学賞作家が、実は性愛と心霊の世界を生涯にわたり追求した人であったり、日本児童文学の開祖となった童話作家に、怪談作家という知られざる別の顔が秘められていたり……その意外性たるや、まことに興趣尽きない。

 さて、今年の夏は「文豪怪談傑作選」シリーズにとって、特別な夏となることを、ここで唐突に御報告しておきたい。
 NHKエンタープライズ企画制作の「妖しき文豪怪談」というシリーズ番組が、NHK−BShiで、8月23日から26日まで四夜連続、22:00から23:00までの時間帯に放映される。
「文豪怪談傑作選」でもおなじみの川端康成、太宰治、芥川龍之介、室生犀星という四人の文豪たちの怪談世界を、撮り下ろしドラマとドキュメンタリーで紹介するという画期的な試みである。
 なにより画期的なのが、ドラマ・パートを担当する顔ぶれだ。

 第1回が、落合正幸監督による川端康成「片腕」。
 第2回が、塚本晋也監督による太宰治「葉桜と魔笛」。
 第3回が、李相日監督による芥川龍之介「鼻」。
 第4回が、是枝裕和監督による室生犀星「後の日の童子」。

 いかがであろう、思わず眩暈を覚えるような凄い陣容ではあるまいか。
 実を申せば不肖ワタクシ、この番組に、昨秋の企画起ちあげ時点から監修役として関わってきたのだ。もちろん筑摩書房の編集Kさんにも、全面的に御協力をいただいている。
 この連載では、今年の「文豪怪談傑作選」をめぐる動向とともに、「妖しき文豪怪談」制作の楽屋裏もリアルタイムでお伝えしていきたいと思っている。御愛読いただければ幸いである。

東雅夫(ひがし・まさお)
1958年神奈川県生まれ。アンソロジスト、文芸評論家。元「幻想文学」編集長、現「幽」編集長。著書に『遠野物語と怪談の時代』『怪談文芸ハンドブック』、編著に『文豪てのひら怪談』など
http://blog.bk1.jp/genyo/